「俺は……大切だと思うものにしか、“傍にいて欲しい”などとは望まん。そして、そう望むような女は、この世でただ一人――千鶴、お前だけだ。この意味がわかるか?」

 告げられた言葉は、都合の良い夢のように、熱に浮かされた千鶴の鼓膜を熱く震わせた。
 前世の記憶のある自分と、記憶を持たない斎藤。
 千鶴の中にはずっとずっと共に生きた記憶があっても、「彼」と実際に共有した時間は一年どころかまだ半年を越えようかという程度。ただの先輩と大勢いる後輩のひとりという関係でしかないと思っていた。
 その斎藤が。普段は寡黙で多くを語らない彼が、言葉を尽くして千鶴を必要だと、傍にいて欲しいと言ってくれる。
 まるで“末永く共に”と願った「一さん」みたいに。
(やっぱり変わってないんですね)
 それは嬉しくて、それでもやはり彼は千鶴の「一さん」ではないのだ。
「先輩のこと、私も大好きです。でも――それだけじゃ、だめなんです」
「……何がだめなのだ」
 絞り出された声は、地を這うように低かった。
「だって、先輩は――」
 尻すぼみになった言葉は、伝えたところでどうにもならないことを知っているから。
 伝えるべき言葉を失って、千鶴は目を伏せた。

 カチコチ、カチコチ。
 時計の秒針が時を刻む音がその場を支配していた。
「……あんたはいつも俺のことを“先輩”としか呼ばないな」
 気まずい沈黙を破って口を開いたのは斎藤だった。しかし、彼が話題を変えたことに、ほっと安堵したのも束の間。
「――きちんと名を呼んではくれないのか? 千鶴」
 まっすぐに目を見て言う斎藤が、遠い遠い昔の「彼」に重なった。
 祝言を挙げた夜、手を取って名を呼ぶよう求められた。求めるままに何度も何度も大切に舌にのせたいつつの音。
 慣れた呼び名を使うと、彼の望む名で呼ぶまで応じてくれなかった背中が、幼子のようで少し笑ってしまった。
 そんな記憶が、鮮やかな色彩を伴ってよみがえってくる。
「は……じめ、さ……?」
 過去の自分に返したはずの呼び名が口をついて出た。
「千鶴は、昔の記憶があるのだろう?」
 やさしい声音が心地良く耳をくすぐる。頬を撫でるその手も、藍色の瞳に映る自分も、何もかもが懐かしかった。
「記憶が戻ったんですか……?」
 頷く斎藤に、堪えていたものが胸の奥から湧きあがり、その出口を目元に見つけて溢れ出す。
 頬を伝い落ちていくそれを、飽きることなく拭ってくれる指のやさしさに、ますます涙は止まらなくなった。
「何故泣くのだ」
 困ったように苦笑を浮かべる斎藤に答えを与えられぬまま、ついにはしゃくりあげて泣いてしまった。色々なものが胸の中でごちゃ混ぜになっていて、一言では説明できなかった。
 そんな千鶴に、斎藤は何も言わずに胸を貸し、泣きやむのを待ち続けるのだった。


*     *     *


次に千鶴が目を覚ますと、ベッドの枕元からこちらを見ている斎藤と目があった。
「あれ……わたし……?」
 ぼんやりと靄のかかった意識で何がどうなっているのかを考えるが、うまくいかない。
 泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしかった。
「まだ熱が下がっていない。何か食べられそうか?」
 空腹感はなかった。黙っていると、斎藤はその場を立とうとする。
「あ……」
 無意識に伸ばした手が、斎藤の服の袖元をやんわりと引っ張った。
 斎藤が振り返って初めて、自分の手がとった動作に気づいた千鶴は動揺する。
「ごめ、なさ……」
「雑炊を温めて持ってくる。すぐに戻るから安心しろ」
 重ねられた手が丁寧に離されて、掛布団の中へ導かれた。その冷たさに身を震わせると、眉を顰めた斎藤が「待っていろ」と言い残して台所の方へ去っていく。

 そして、しばらくの後。
 湯気をたてるたまご雑炊を手に戻ってきた。
 頭の後ろに腕を通し、千鶴の身体を起こした斎藤がごくごく自然な動作でスプーンを千鶴の口元へ差し出す。
 だしの良い香りに誘われるままに口を開こうロした千鶴だったが、ふと我に返って身をのけぞらせた。
「あの、自分で食べられるので大丈夫です…!」
「……そうか」
 手渡された茶碗を受け取り、ゆっくりとスプーンを口へ運ぶ。程よい温度のそれはじわりと体の底から温めてくれるようだった。
「おいしいです」
「そうか」
「ありがとうございます」
「薬もある。飲んで早く治せ」
「はい」
 差し出されるがままに水で薬を喉へ流し込むと、けだるい体を再びベッドへ沈めた。


*     *     *


「千鶴ちゃん、具合はどう?」
 夢と現実の狭間でたゆたう意識に落ち着いた声が届いた。
 ひどく汗を掻いたらしく、髪が頬に張りつき、パジャマはしっとりと湿っている。
「あれ…お千ちゃん……?」
「久しぶり、千鶴ちゃん。藤堂君から千鶴ちゃんが風邪で寝込んでるって聞いてきたの。なんで私に一言連絡くれなかったの? 出遅れちゃったじゃないっ」
「ごめんね? 迷惑かけたくなかったの」
「そんなことだろうとは思ったけどね。あー、やっぱり千鶴ちゃんと一緒の高校に進んどけば良かったわ! ……いつも、千鶴ちゃんが大変なときに力になれないのよね」
 中学で同じクラスになって、千鶴と千姫は仲良くなった。平助と三人、にぎやかに遊んだ記憶も多い。けれど、家族が事故に遭ってから、千鶴はどこか一線を引くようになってしまった。そして、高校が別々になると、そのまま連絡を取ることも稀になってしまっていた。
「お千ちゃんはちゃんと力になってくれてるよ。ただ、私がお千ちゃんに甘えすぎちゃうのが怖くて……」
「千鶴ちゃん、水くさいよ! そんなの、甘えてくれた方がずっと嬉しいのに! 大体、私よりも先に男の人を部屋に入れるなんて……。彼、千鶴ちゃんの恋人?」
 「彼」と言われて思い当たるのはひとりだけだ。
 額に手をあてれば、まだひんやりと冷たい熱冷ましのシート。
「せんぱい……夢じゃ、なかったの?」
 斎藤が看病しに来てくれた。雑炊を作って薬を飲ませてくれた。――告白をされて、記憶が戻ったことを告げられた。
 あまりにも出来すぎていて、都合の良すぎるそれに夢だと思っていたのに。
 早まる鼓動を抑えるように、胸に手を当てて目を閉じる。
「彼なら、そこにいるわ」
 告げる千姫の声に目を開け、体を起こした。千姫の指のさす先を見れば、ベッドの足元の面に背中を預け、目を閉じている斎藤の姿があった。
「昨日一晩中、寝ないで千鶴ちゃんの看病してたみたいだったから、帰って休むよう言ったんだけどね、約束したそうよ。“起きたときもいる”って」
 誰とした約束なのか、なんて愚問だ。
 千鶴は熱でよく覚えていなかったけれど、それでも律儀に傍にいてくれた。
 また込み上げてくるものを腹に力を入れて抑え込む。
 溢れそうになる感情を自分だけで形あるものとして拾い上げるのはもう無理だった。
「あのね、お千ちゃん。信じられないような話なんだけど、聞いてくれるかな」
 無言でうなずく千姫に、千鶴はこれまでのいきさつを、前世の記憶のことも含めてすべて話した。

「ずっと私だけに記憶があって、でも、先輩には記憶がなくて。私はただの後輩でしかないから、傍にいられるだけで良かったの。だけど、先輩に告白……されてね。先輩には“記憶”がないから、今の私を好きになってくれたんだって思うと嬉しかった。でも、私は……私には、記憶があって、初めて会ったときから“先輩”だけど“一さん”としても好きだった。これって、本当に好きっていえるのかな……。ただ、過去の自分が過去の“一さん”を好きだった気持ちに引きずられてるだけで、ちゃんと今の“先輩”を好きなのか、自分でも自信がないの」
 訥々と語る千鶴に、千姫はただ頷いて聞いている。
「先輩は記憶が戻ったって言ってた。思い出を共有できるのはすごく嬉しい。でも、それもやっぱり過去の記憶が私を選ばせちゃったんじゃないかって思うと…わかんないの。私も先輩も、本当の気持ちがどうなってるのか」
「……だから、千鶴ちゃんは彼を受け入れられないってこと?」
「先輩には過去に縛られて欲しくない。それに、私も……こんな状態で応えるのは、“斎藤先輩”に失礼だと思う」

 生真面目すぎるほど真面目に考えている千鶴に、千姫は「なんだ、そんなこと」と笑った。
「良いこと? 千鶴ちゃん。千鶴ちゃんは、その彼に記憶が戻ってないころから好きだったのよね?」
「うん」
「その彼は記憶がなくても千鶴ちゃんの知っている昔の彼と似ていた?」
「うん」
「じゃあ、まったく同じだった?」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、そういう昔とは違う部分を見て、嫌だなって思ったりはしたの?」
「それはないよ……」
 平成の平和な時代で、命を危険に晒すことも、左利きであることを重荷に感じることもなく生きているその姿に安堵こそすれ、嫌だなんて思ったことはなかった。「千鶴」と呼んでくれないその声でさえ、ずっと聞いていたいと思えた。不器用なやさしさは、変わっていなかったけれど、救われていた。
「それって、ちゃんと今の彼が好きだってことじゃないの? きっかけが何であれ、今の千鶴ちゃんが、今のあの人を好きだってことは変わらないと思うわ」
 確信をもって堂々と断言する千姫に、千鶴は固く巻きついた糸がほどけていくような心持ちになった。大切だと思えば思うほどに、その想いにどう応えればいいのかわからなくなって臆病になっていたのだと自覚する。
「うん……そうだよね。やっぱり、私は先輩のことが好き」
 言葉にすれば、先程までの迷いが嘘のように晴れてしっくりといく。
 これ以上、この感情にふさわしい言葉はないように思えた。

 そのとき。
「――そういうことは、本人に言ってくれないか」
 いつの間にか起きだしていた斎藤が、千鶴のベッドの脇に立っていた。
「先輩!?」
「俺は、他でもないお前が、雪村千鶴が好きだ。記憶は関係ない」
「、はい…! 私もはじめ先輩が好きです」

 二度目の恋が成就した。



(2012.02.22//24/7
【微衷録】12月テーマより再録
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