「雪村君はなかなか筋が良いなぁ!」 「ありがとうございます!」 賑やかな道場の端の方で竹刀を振るっているのは雪村千鶴。剣道部のマネージャーである。そして、彼女を指導しているのが近藤勇。 普段は耳元でゆるく束ねているが、近藤の指導を受けている千鶴は、後頭部の高い位置で髪を結いあげている。彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れる艶やかな黒髪。いつもと変わらぬジャージ姿の背中を見ていると、ふと既視感を覚えた。学校指定の浅葱色のジャージに桜色が重なって見えた気がして、意識的に一度目を閉じてみる。そうしてもう一度目を開けば、やはり見慣れたジャージの背中がきびきびとした動作で動いていた。 「近藤さん、千鶴ちゃんばっかり見てないで僕と手合わせしてくださいよ」 ニコニコと近藤と千鶴の間に割って入る沖田。三人が談笑する姿に懐かしさを伴った名状しがたい感情が込み上げてきた気がして、斎藤は首をかしげる。 ――大切な何かが、胸の底で目覚めを待っている、ような。 「……先輩?」 呼ばれていることに気付いて意識が現実に焦点を結ぶと、斎藤の顔を覗き込む千鶴の姿があった。 「大丈夫ですか……?」 「、ああ」 千鶴の肩越しに、近藤と楽しげに竹刀を交える沖田の姿が見える。 「あの、来週の月曜日の朝なんですが、用事があって道場には来られないんです」 「そうか。承知した」 『俺には、雪村が必要なのだ。離れるな。――離れないでくれ、千鶴……』 そう言って引きとめた翌日から、再び早朝の稽古に千鶴もやってくるようになった。 振り返らずに離れていく娘の手を取り、抱き締めて肯定の答えを引き出した。 正しい方法とは決して言えないことはわかっている。しかし、それは間違いなく、斎藤にとって精一杯の「告白」だった。以後、千鶴は斎藤の望んだ通りにそばにいてくれる。大きく何かが変わったわけではないが、手の届く場所にいてくれることに安堵していた。 ――しかし、まもなく、それは斎藤の一方的な思い込みだったのだと知ることになる。 月曜日。 「千鶴はまだ来ないのか?」 「……一君知らないの? 千鶴ちゃん、風邪引いたらしくて今日は休みだって」 放課後の道場で沖田の口から聞いた事実は初耳だった。朝稽古は用事で来ないとは聞いていたが、学校自体を休んでいたとは知らなかった。 「……一君さ、寮にお見舞いに行ってきなよ。千鶴ちゃんと付き合ってるんでしょ?」 「……、なにゆえそれを、」 目を見開いた斎藤に、沖田はあきれたように返す。 「君さぁ、誰の前で千鶴ちゃんに『行くな』って言ったか覚えてる?」 「……、」 「堅物の一君が女の子にそばにいて欲しいなんて、聞いたら普通は“そういうこと”なんだってわかるでしょ。普通は、ね」 ニヤリと含みのある笑いを浮かべた沖田は、 「当然、風邪で苦しんでる一人暮らしの彼女を放っておくなんてこと……ないよね?」 畳み掛けるように続ける。しかし、斎藤はそこで千鶴の寮の部屋番号を聞いていなかったことを思い出した。 一人暮らしの女子に部屋を聞くことは下心を疑われそうで訊けなかった。 沖田に言えば馬鹿にされそうな、それでも斎藤にとっては重要なことだった。なんとか繋ぎ止めた彼女を怖がらせない。既に築いた距離を大切に、慎重に彼女の隣を守り続ける。 ――末永くそばに。 そんなことを真剣に願っていたのだ。 「……仕方ないなぁ。ほら、千鶴ちゃんの部屋番号」 何も口に出さない斎藤の思考を読んだように、沖田が小さな紙切れを目の前でちらつかせた。 「すぐに食べられそうなものとかスポーツドリンクとか買って行ってきなよ。ちなみに、合鍵はこれね」 「なにゆえあんたがこれを」 「近藤さんがいざというときの為に預かってたんだって。近藤さんはちょっと行けそうにないから、代わりにって頼まれたわけ。まぁ、頼まれた僕が行っても良いんだけど、一君が行きたいかなぁ……と気をきかせてみたんだけど?」 最後まで聞くことなく、斎藤は合鍵を手に走り出していた。 鍵穴に挿した合鍵は抵抗なく開いた。事前に携帯にメールはしたが、眠っているのか返事はない。 柄にもなく緊張しながら玄関に足を踏み入れ、静かにドアを閉じる。少しためらってから元通りに鍵をかけ、靴を脱いだ。簡素な台所を抜けるとそこはもう居間を兼ねた寝室だった。小綺麗に整理された部屋の隅にベッドがあり、千鶴が眠っている。 ――あまり見てはならない。 そう思うのに、常よりも赤く熱を持った頬に、汗をかいて額についた髪に、自然に目が向いてしまう。 無意識に伸ばした手が額に触れ、その熱さを知覚してから、なんとかここへ来た目的を思い出した。 薬局で買ってきた熱冷ましのシートを貼ってやり、スポーツドリンクを冷蔵庫へ。それから、台所で簡単な雑炊を作る。準備が整ったところで、もう一度千鶴の元へ戻った。 額にはシートがあるため、頬にそっと触れる。 しっとりと熱い。 息もまだ荒く、起こして薬を飲ませるべきかと迷っていると、身じろぎした千鶴がうっすらと目を開いた。 「ん……、は……め、さん……?」 掠れた声が呼ぶ。 「千鶴……?」 「はじめ、さん……ご迷惑かけちゃって、ごめんなさい」 「……、」 「でも、こうしてると……ずぅっと前のこと、思い出します。あのときは……夢かと」 「起きたときも、いなくなったりしないで……」 熱い手のひらが、頬に触れたままだった斎藤の手に重ねられて、そのまま脱力した。 ごく自然に呼ばれた名前。 斎藤の知らない「ずぅっと前」のこと。 ドクドクと心臓が脈打ち、耳の奥で血の流れる音が聞こえる気がした。 耳鳴りがする。頭が痛い。 『一さんのお願いごと……“末永く、共に”ですか。嬉しいです』 『そういうお前はどうなのだ、千鶴』 『ふふ、私のお願いごとは――』 頭痛と共に、とても大切だったものの断片が斎藤のもとへ戻ってきた。不思議と驚きはなく、ただこれまでの色々なことに説明がついたことにすっきりとした心持ちさえした。 しかし。 「っ、先輩?!」 「千鶴、起き――」 「どうして先輩がここに!?」 しっかりと目覚めて斎藤を映す琥珀がこれでもかというくらいに見開かれていた。 「どうしてとは……千鶴が風邪をひいて休んでいると聞いたのでな」 「だからってなんで先輩が……!」 「勝手に部屋を聞いて上がりこんだことについては謝ろう。だが、俺とて大切な者が寝込んでいると聞いては黙ってはおれん」 「た、大切な者!? え、誰のことですか」 「……熱がまだ下がっていないようだな。雑炊を作ってあるから、それを食べて薬を飲んでゆっくり休め。お前がよくなるまで俺が看病しよう」 冷めてしまった雑炊を温め直そうと台所へ行きかけたそのとき。背中から聞こえた呟きに斎藤はようやく沖田の言葉の意味を知る。 「ただの後輩のために、どうしてそこまで……」 『堅物の一君が女の子にそばにいて欲しいなんて、聞いたら普通は“そういうこと”なんだってわかるでしょ。普通は、ね』 なんということだろう。沖田のいう「普通」ではない者がいたのだ。今、斎藤のすぐ後ろに。 「――千鶴、」 振り返ると、複雑な色をした瞳が斎藤を見上げている。 「俺は……大切だと思うものにしか、“傍にいて欲しい”などとは望まん。そして、そう望むような女は、この世でただ一人――千鶴、お前だけだ。この意味がわかるか?」 先程、斎藤がいることに気づいたときと同じかそれ以上に見開かれた瞳。言葉を失った唇。 二度目の「告白」に返される言葉は何か。断罪を待つ罪人のごとき心境で、けれど目を逸らすことだけはせずに千鶴を見つめる。 「……本当に……?」 「こんなことで嘘をついても仕方ないだろう」 「……先輩のこと、私も大好きです。でも――それだけじゃ、だめなんです」 ――はじめさん。 熱に浮かされた彼女の声が頭の中で甘く響いていた。 (2012.02.22//24/7) 【微衷録】11月テーマより再録 |