青く澄んだ空には雲が浮かび、今を盛りと蝉が鳴く。
「今日も良いお天気ですね」
 隣に立ち、斎藤の視線を追うように空を見上げたのは雪村千鶴だ。
 初めて早朝の稽古の時間を共に過ごして以来、千鶴は毎朝斎藤の稽古姿を見に来るようになった。
 斎藤の剣をまっすぐに見つめ、「きれいだ」と評する娘が傍にいることを、斎藤は不思議と邪魔に思うこともなく、いつの間にかこの時間を共に過ごすことがごく自然であると感じるようになっていた。
「――先輩は、よく空を見上げてらっしゃいますね」
 いつものようにふんわりと陽射しを含んだタオルを受け取って汗を拭いながら、指摘された内容を吟味する。
「……言われてみればそうだな。大きなものを見るのが好きなのかもしれん」
「大きな…もの……」
 斎藤の答えに目を見開いた千鶴に、「変だろうか」と問えば、彼女はぶんぶんと顔を横に振った。
「そろそろ着替えねばHRに間に合わんな。雪村は先に教室へ戻れ」
「……はい。タオルは洗濯かごに入れておいてくださいね」
「ああ」
「では、また放課後に」
 ぺこりとお辞儀をして身を翻した千鶴を確認すると、斎藤もまた更衣室へ足を向けた。
 彼女が時々、複雑な色の浮かぶ瞳で斎藤を見ることに気付いたのはいつだっただろうか――。


*      *      *


 ――放課後、剣道場にて。
「あー、暑い暑い!! どうして此処にはクーラーがないのさ! 土方さんは僕たちを殺そうとしてるわけ?」
「あぁ?! 夏は暑いとしたもんだろうが。ぐだぐだ言ってねェでさっさと着替えて来やがれ! 今日は久々に近藤さんが来るってのに、たるんだとこ見せるんじゃねぇぞ!!」
「はいはい、わかってますー。近藤さん、忙しくて最近全然顔出してくれないからなぁ。つまんない」
 くるくると道着の入った袋を回しているのは沖田総司だ。斎藤と同じ三年だが、性格は正反対。気まぐれで授業も練習もよくサボる。
 そんな沖田が近頃は真面目に放課後の練習に顔を出すようになっていた。
「え! 今日は近藤さんもいらっしゃるんですか?!」
「ん? うん、そうだよ。千鶴ちゃんは聞いてなかった?」
「はい、今初めて知りました…!!」
「……なんか、嬉しそうだね?」
「私、近藤さんのおかげで寮にも入れてもらって、この高校に通えてるのに、まだゆっくりお礼を言う機会がなかったんです。だから、今日はちゃんとお会いして、お話ししたいです」
 拳を胸の前で握りしめて語る千鶴に、沖田は珍しく穏やかな表情で相槌を打った。
「――ほら、近藤さんが来たみたいだ」
 道場の入り口を指さして言った沖田は、そのまま近藤の方へ向かっていく。千鶴もその後を追う。
「おぉ、総司。久しぶりだなぁ!! 真面目にやってるか?」
「もちろんやってますよ。――あとで、僕と手合わせしてくださいね、近藤さん」
「いいとも! 負けられんなぁ!!」
 朗らかに笑いながら沖田の頭を撫でていた近藤が、ふと沖田の背後に立つ千鶴に目を止めた。
「君は……雪村君じゃないか!」
「お久しぶりです、近藤さん。……あの、これまでちゃんとお礼もできずにすいません」
「いや、前回は慌ただしくなってしまってすまなかったと思っていたんだ」
「そんな……、」
「何か不自由はしてないかね? 困っていることがあれば何でも言いなさい。雪村君はもう、私の娘も同然なんだから」
 ぽんぽん、と沖田にしたように大きな手が千鶴の頭を撫でた。琥珀の瞳を潤ませて感謝の言葉を連ねる千鶴に、近藤は「娘ができるなんて、嬉しいなぁ」と呵呵と笑った。


*      *      *


 翌日。
 いつものように早朝からの鍛錬を終えた斎藤の隣に、千鶴がスポーツドリンクを差し出す。受け取って喉を潤わせると体中に沁み渡っていく。
 まっすぐに斎藤を見つめる琥珀の瞳。大きなそれが、潤んでいた昨日の放課後を思い出した。
「……本当に困っていることはないのか」
「え……?」
「事情はよく知らないが、女一人の寮生活では困ることもあるだろう。近藤さんに直接言いにくいことでも、俺になら言えることもあるのではないかと思っただけだ。何もなければ忘れてくれ」
 なんとなしにきまり悪くなって、ふいと視線を逸らそうとした斎藤の視界に目を真ん丸にして自分を見る娘の姿が目に入った。
「ありがとうございます。……先輩には、ちゃんとお話し、するべきですよね」
「いや、俺は詮索つもりでは……」
「はい、わかってます。でも、やっぱりお話したいです。……聞いてもらえますか?」
 そう言われてしまえば、斎藤に否やはなかった。
 千鶴は、その身の上をぽつぽつと語り始めた。

「私の家族は父と私と双子の兄の三人家族でした。母は病弱で、私を産んで間もなく亡くなったようで、どんな人だったのか記憶にありません。町の診療所を経営している父と、同い年の兄と。三人でずっと平和に暮らしていて、毎日がしあわせでした。……でも、去年の冬に雪がすごく積もった日があって。遊びに出かけていた私を、父と兄が車で駅まで迎えに来ようとしてくれたんです。……夜で、積もった雪で路面が凍結していて。それで……、」
「……そうか…。それ以上言わなくていい」
 斎藤の言葉に、千鶴は唇を噛みしめて天井を振り仰いだ。いつも朗らかに笑っている彼女が、涙をこらえて上を向く姿に胸をつかれた。
「あんたを慰めるられるような器用な言葉は知らん。だが……無理に涙をこらえることはない」
 不器用に伸ばした腕の中、小柄な娘の肩がぴくりと震えた。しかし、抗う様子は見せないので、そのまま顔を見えないように胸元に抱き寄せる。
 ややの間をおいて、静かに泣き始めたその細い肩を離したくないと――何故かそう思った。

 ひとしきり泣いた千鶴が顔を上げると、斎藤はまだ彼女の手にあったタオルを取るとそっと目元を拭ってやった。
 赤くなった目に映る斎藤の顔は痛ましげに娘を見ている。
「辛いことがあったなら、泣けば良い。あんたはいつも、我慢のしすぎだ」
「いつも……?」
 鼻声の千鶴が不思議そうに繰り返したところで、自分の言葉のおかしさに気付く。
 確かに、斎藤が千鶴に出会ったのはこの春が初めてで、これまでに彼女が我慢している姿を何度も見かけたわけではない。それでも、自然に口をついて出た言葉は単なる「言葉の綾」というには実感がこもっていた。
 何故か、彼女はいつも悲しみを胸に押し込めて気丈に笑っている――そんな、気がしたのだ。
「いや…! とにかく、俺にできることがあれば何でも言え。遠慮は無用だ。俺は、土方先生にあんたのことを頼まれている」
 頼まれてしていることだから、何を言っても彼女が自分に気を遣うことはない。
 そのつもりで口にした言葉に、しかし娘の瞳は痛みを宿して揺れた。
「あの…ありがとう、ございました」
 斎藤の腕から逃げるように去っていく千鶴に、斎藤はなす術もなく立ち続けるしかなかった。


 以来、斎藤と千鶴は距離を置いて接するようになっていた。
 あれほど毎朝同じ空気を吸い、春からじめじめと湿気た梅雨を越え、盛夏の訪れを共に肌で感じていた存在がいなくなれば、だだっ広い道場に斎藤の息づかいだけが響く。
 稽古を終えて見上げた空は、どんよりと雲が広がっていた。
 何をどう間違ったのか、斎藤にはわからない。喉に流し込んだ水はぬるく、一層胃を重たくした。


*      *      *


「ねぇ、千鶴ちゃんってもう一君の朝稽古に付き合ってないの?」
 放課後。稽古を終えて帰ろうとしているところへ、沖田の声が耳に飛び込んできた。
「そう、ですけど……」
「じゃあ、千鶴ちゃんさ。僕に付き合ってよ」
 ぴたり。
 無意識に足は止まっていた。振り返ることはせず、耳に全神経が集中する。
「千鶴ちゃんは僕のこと、嫌い?」
「え……?」
 たまらず、振り返った先で千鶴は戸惑いも露わに沖田を見上げていた。沖田の目が一瞬斎藤を捉え、挑戦的に笑った気がする。
「実は、僕もそろそろ本気を出して体を鍛えてみようかなって。毎朝走り込みでもしようかと思うんだけどさ、やっぱり誰かと一緒の方がやる気が出るじゃない? だから、丁度千鶴ちゃんも今フリーみたいだし、僕のトレーニングに付き合ってほしいんだ」
「トレーニングに……?」
「うん。一君の朝練に付き合ってたんだから、僕に付き合えないってことはないよね? 一君はもう千鶴ちゃんを必要としてないみたいだし? 何の問題もないでしょ」
 畳みかけるように続ける沖田に、千鶴は否定材料を持ち合わせていなかった。
「僕は一君と違って、君を必要として、君にお願いしてるんだ。千鶴ちゃんが練習に付き合ってくれたら、すごくやる気が出るんだけどな」
「必要……」
 ちらり、千鶴が斎藤を振り返る。けれど、斎藤には千鶴を引き留める理由がなかった。――否、理由を説明できなかった。
 ゆえに、口にしたい言葉が喉元で詰まる。声が、でない。
 そんな斎藤を見た千鶴は、淋しげに目を伏せると、沖田に向き直る。
「……私で良ければ、お手伝いさせてください」
「うん、ありがと。――じゃあ早速、あっちで明日からの打ち合わせしようか」
 千鶴の腕を取って歩き出す沖田。
 千鶴ももう、振り返らない。
 離れて、いく。
「――行くな!!」
「……えっ?」
「俺は、あんたに……そばにいて欲しい」
 沖田が取っていたのとは反対の腕を取り、そのまま道場の外へ出た。とたん、喚くような蝉時雨に包まれる。
「俺には、雪村が必要なのだ。離れるな。――離れないでくれ、千鶴……」
「せ、んぱい……?」
 腕の中の娘が掻き消えそうな声で離れぬと約すまで、手の力を緩めなかった。



(2011.12.03//24/7
【微衷録】10月テーマより再録
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