(※学パロ転生設定)
ぼんやりとした花曇りの空から、ちらちらと薄紅色が降ってくる。 風に舞い散るそのさまを見上げる姿が目に入った。 伸びた背筋。風に遊ばれる長めの髪は、春の陽射しを受けて宙の色がやわらかい。僅かに細められた瞳には桜が映っているのだろう。 「一さん…」 口からこぼれた音は、千鶴のよく知るひとの名だ。今、千鶴の視線の先にいるひと。 声をかけたくて、でも、かけるべき言葉がわからない。 だって、彼は――。 彼は、千鶴を知らないから。 去年の秋、試衛館高校の文化祭に幼なじみの平助と来ていた千鶴は、道場で竹刀を振るう斎藤を見つけた。記憶の底に眠っていた遠い遠い過去を揺さぶり起こしたその剣閃は、かつてのような白刃の冷悧さはなくとも、どこまでも迷いのない鮮やかなうつくしさがあった。 見事に一本勝ちを決めた彼が、被っていた面頬を外す。その下から、獲物を見据えるまっすぐな藍色の瞳が覗いた。 『はじめ、さん……?』 音を失った世界。それでも、呟きは彼に届くわけもない小ささで。刹那、千鶴と斎藤の視線が交錯する。 藍色が千鶴を捉えたかに見えた。しかし、視線はそのまま溢れる人波の上を横滑りしていく。掻き消えていた音が急速に戻り、華麗に勝利を決めた男に向けられる歓声が耳をつんざいた。 千鶴の知る「斎藤一」はもう、この世界のどこにもいないと知った、まだ残暑の厳しい秋の日のこと。 いわゆる家庭の事情もあって、千鶴はその翌春、試衛館高校に入学を決めた。共に文化祭へ行った平助も無事に合格を決め、桜咲く並木道を進む。新入生で活気づく道の先には立派な校門があり、真新しい制服に身を包んだ学生たちが飲み込まれてゆく。 入学式は、自由な校風を反映してか、終始和やかな雰囲気で進行した。式の後のクラス別ホームルームで窓際の席になった千鶴は三階の窓から見える中庭の桜の見事さに目を奪われていた。 春ののどかな陽射しの下、緩やかに花弁を散らしてゆく桜の大樹。 放課後、早速剣道部へ入部届けを出しに行くという平助と別れて、千鶴は中庭に来ていた。 剣道部へ行けば「彼」に逢える。けれど、断片的に前世の記憶を取り戻した千鶴には、まだ記憶を持たない彼と向き合う勇気がなかった。 あくまでも過去は過去でしかない。今は江戸時代でも明治時代でもなくて、幼なじみの平助とて、新選組八番組組長ではなく、どこにでもいるごく普通の男の子として出会った。千鶴が新選組時代の彼を思い出しても、平助にその気配はない。 前世の記憶があるだなんて、真面目にいえば正気を疑われてしまうような馬鹿げたことだ。千鶴とていきなり言われたら信じがたいと思ってしまうだろう。でも、千鶴には疑いようもなく「判って」しまったのだ。それが、かつて追いかけ続けて夫婦にまでなれたひとの魂なのだと。 けれども、そんな前の世の過去を他人に押しつけるなんて絶対にしてはいけない。大切な記憶は思い出として、自分の心にとどめておかなければならない。 わかっている。 わかっている、のに――。 視線の先には、いつかの別れのときのように桜を見上げるひと。 『変わらないものをこそ、信じている』 着流しを着ているわけでも、長い髪を耳元で結わえているわけでもない。 それでも、重なる。 遠い遠い過去のあの日と。 声をかけることも立ち去ることもできずに、一面の春の中に立つひとを見ていた。 どれくらいの時間が経っただろうか。 視線の先のさくらびとがゆるりと振り返った。 「……新入生か。こんなところで何をしている」 離れていても、低く徹る声。変わらない。その声が、何度名を呼んでくれただろうか。 「はじ……めさ、」 何度もせがまれて呼んだ名前。一さん、そう呼んでいたのは千鶴だけだった。千鶴だけの、彼の呼び名。 無意識に口にしていた。けれど、はっと我に返って口を閉ざす。 「あ、あの、はじめ…まして。この桜が教室から見えて、あんまり綺麗だったから」 どこか、西本願寺で離隊してゆく斎藤と見た桜のようで、懐かしかったから。 「だから、誘われてきてしまっただけなんです…」 「……そうか。俺も、この桜を見ていると何か懐かしいような心持ちになるのだが……あんたも似たようなものか」 「懐かしい…?」 「ああ」 千鶴は一言も「懐かしい」とは言っていない。けれど、彼は同じ気持ちでいてくれた。そのことが嬉しかった。 ――ふたりの過去は、変わらずどこかで眠っているのだろうか。 「……綺麗ですね」 「……ああ」 少し離れた距離でふたり、黙って桜を見上げていた。吹き抜ける春の風はあたたかく、やさしく花びらを連れてゆく。 (時が止まってしまえばいいのに) ちらりちらりと斎藤を見ていた千鶴の背後から、突然聞き覚えのある声がした。 「おい、斎藤!」 職員室のある方角からやってきたのは、初対面であってそうでないひと。 「ひじかた…さん…?」 「、千鶴……?」 スーツを身にまとった男は、斎藤の手前に立つ千鶴の姿を目にとめ、その瞳を見開いた。紫の瞳が水晶のように光を受けて輝く。 千鶴の名を呼んだのは、かつての新選組副長・土方歳三だったひとだ。 「土方さん、記憶が……?」 「お前も…?」 互いの記憶の糸を探り合うように相対した土方と千鶴に、そばにいた斎藤が訝しげに眉を顰めた。 「……土方先生、彼女をご存知なのですか」 「…、ん? ああ。その、なんだ。家庭の事情ってやつでな、こいつの親と付き合いのあった近藤さんが世話をすることになったんだ。その関係で、近藤さんが経営するこの学園で寮暮らしすることになってな。俺も近藤さんから頼まれてるんだが……まあ、斎藤も気にかけてやってくれ。うちは元男子校で、まだまだ女子は少ねぇしな」 「土方先生の頼みとあらば否やはありませんが…」 「が、なんだ?」 「彼女の名は?」 斎藤の視線が千鶴に向けられた。他人に向けられる、感情のこもらぬ瞳。ちりり、痛む胸に気づかぬふりをして、千鶴は笑みを浮かべた。 「私、雪村千鶴といいます。よろしくお願いします」 「三年の斎藤一だ。よろしく頼む」 そんなこと、知っている。喉元まで出かけた声を堪えるために、唾を飲み込んだ。 「……そういや、お前、部活は決めたのか?」 「いえ、まだですけど…」 「どうせなら俺たちの目の届く剣道部でマネージャーでもやらねぇか?」 ――剣道部。 斎藤のいる場所。 迷いは呼吸ひとつの間に静めた。そばにいるだけなら――。 「やらせてください!」 既に入部を決めていた平助からも盛大に歓迎され、千鶴は剣道部のマネージャーの任に就いた。 強豪校としても有名な試衛館高校である。剣道場も立派なもので、時間を気にせず練習に打ち込める環境が整えられていた。 まだまだ始業まで時間のある朝。千鶴は道場に足を運んでいた。 春先の早朝である。道場の空気はひんやりと冷たく、しんと静まり返っている。 瞼を閉じれば、昨年の秋に見た剣閃がよみがえる。同時に、遠い過去、何度も千鶴を庇って抜かれた剣のの太刀筋も。 「雪村か。――随分と早いな」 かけられた声に目を開けて振り返った。 「おはようございます。目が覚めてしまって。……朝稽古、ですか?」 「ああ。朝からこの空気に身を置いて稽古をすると、身も心も引き締まるような気がするのだ」 袴姿の斎藤は、そのまま床に正座をし瞑想に入った。千鶴も倣って目を閉じてみる。 物音一つしない空間にひそやかに漏れる息遣いはふたつ。 身近に気配を感じられるだけで浮き立つ心を気取られぬよう、深呼吸して精一杯精神を静めた。 瞑想を終えた斎藤は、そのまま竹刀を手に取りひとりで稽古を始めた。 千鶴は壁際に身を寄せ、黙ってその姿を見つめる。 しばらくの間、竹刀を振っていた斎藤が千鶴を顧みた。 「そんなに見ていて楽しいものではないだろう」 「楽しいですよ? 私、剣道を見るのって好きなんです」 千鶴は、昨年の文化祭で見た斎藤の試合のことを語ってみせた。その剣筋のまっすぐさ。剣に向けるまなざし。全てを鮮やかに思い出せる。斎藤は面映ゆそうに視線をそらしてしまった。竹刀を握ったまま下ろされた左手に、ふと遙か昔の彼が拘っていたことを思い出す。 「そういえば、はじ――、先輩は、左利きなんですね」 「……ああ。利き手を直そうとは思わなくてな」 幕末、右差しの剣客としていわれなき中傷を受けていた斎藤は、ただひたすらに爪を研ぎ、相手に勝つことによってのみ、自分の正当性を証明しようとしていた。 それが、今は穏やかな表情で己の利き手を受け入れ語る余裕を持っている。 ――もう、明日をも知れぬ生死の狭間で生きる時代ではない。刀がなくとも、利き手が左手であろうと、平和に生きていける時代なのだ。そのことを、改めて強く意識した。 彼は「斎藤一」であってそうでない。ならば、千鶴もまた、「雪村千鶴」であってそうではないのだろう。 「――斎藤、先輩の剣は……すごくきれいです」 「……そうか」 変わってしまったのに、変わらないあなた。 さようなら、一さん。 はじめまして、斎藤先輩。 大切にしていたあなたの呼び名は過去の私に返します。 だから、あなたの後輩として、そばにいることだけはゆるしてください。 あなたの「千鶴」はもういないはずなのに、それでも私はあなたに魅せられてしまったから。 (2011.12.03//24/7) 【微衷録】9月テーマより再録 |