ふわりふわり。
 鈍色の空から氷の華が舞い落ちる2月の半ば。国公立大学の二次試験目前のこの時期、試衛館高校の卒業式が執り行われた。
「一先輩、沖田先輩、ご卒業おめでとうございます」
 式とその後のホームルームを終えた斎藤達のもとを訪れた千鶴は開口一番に祝意を述べた。
「ありがとう、千鶴」
「なんかイマイチ実感ないんだけどねー」
「入試もこれからが本番ですもんね」
「そうそう。進路も決まってないのに放り出すのってどうなのさって思わない?」
「式が遅かろうが、4月から俺たちの居場所がなくなることに変わりはないだろう」
「それはそうだけどねぇ」
「……先輩たちは、大学に入っても剣道を続けられるんですか?」
「そうだな。志望校も剣道の強豪校だからな」
「まぁ、僕らより強い人はなかなかいないだろうけどね」
「……総司。なめてかかると負けるぞ」
「はいはい。言われなくたって、やるときはマジメにやるよ」
「まずは合格することが先決だがな」
 斎藤と沖田のかけあいに、千鶴はそっと目を伏せた。そんな様子にいちはやく気づいた斎藤は、千鶴の細い肩に手を置く。
「……寂しくなるな」
「はい……」
「ならさ、千鶴ちゃんも早く追ってきなよ。きっと平助君も僕らと同じとこ目指しそうだし、またみんなで一緒に剣道できそうじゃない? どうせなら有能なマネージャーも欲しいよね」
「っ、」
 離れてしまっても、また皆のいる場所へ追っていくことを許されている。家族を失い、確固とした居場所がわからない千鶴に無条件に差し出される手。それが、たまらなく嬉しかった。
「おーい! 一君、総司、千鶴! 皆で打ち上げ行こうぜー!!」
「……え! 私もご一緒していいんですか?」
「しばらくはいつものメンバーで騒ぐこともできなくなるからな」
「最後に思いっきり楽しまなきゃね!」
「はいっ」

 それから、剣道部のメンバーに一部の教師陣をも加えた卒業祝い兼送別会が行われた。教師がいるにもかかわらず、アルコールを手に盛り上がる生徒たちに、学園長である近藤までもが笑っている。これでは、当初は怒声を上げていた土方も毒気を抜かれてしまう。
「ったく、近藤さんまでそんなことで良いのかよ…」
 原田や永倉が一発芸を見せ始めたのを尻目に思いっきり溜め息をついた土方に、近藤はしみじみと語る。
「なぁ、トシ。なぜだろうなぁ。俺には、この光景がとても……懐かしくてたまらんのだよ。ずっと前にもこんなことがあったような気がしてなぁ。小さかった総司たちが酒を飲んで騒ぐはずはないんだがなぁ」
「近藤さん……、」
 近藤には前世の記憶はないが、土方にはある。かつて、彼らは何度もこうして皆で宴会を開いては雑魚寝をして朝を迎えたものだった。平凡でしあわせで、とても――大切な時間だった。
「懐かしいってェんなら、俺も同じだよ。近藤さん」


「総司、もう一杯だ」
「はいどうぞ」
「あと一杯」
「どうぞ」
 ひどく喉が渇く。斎藤は、沖田が烏龍茶だといって差し出すグラスを次々と飲み干していた。
 何もしなくても、立っているだけでポケットに入れた小箱が足に触れて存在を主張する。それをいつ千鶴に渡せば良いのか。
 学校で式が終わった直後に渡してしまえば良かった。そうすれば、こんなに焦りと緊張が長時間続くなんてことにはならなかったはずだ。しかし、当の千鶴はこれから会いにくくなる原田や永倉らと楽しげに話している。時間は過ぎる一方だった。
「……一君、烏龍茶まだいる?」
「…………いや……、」
 緊張のしすぎでのぼせたのだろうか。視界がゆらりと揺れる。そこへ、斎藤の様子に気づいたらしい千鶴が心配そうに寄ってきた。
「一先輩、大丈夫ですか……?」
「……、」
 反応のない斎藤に代わり、沖田が状況を説明してやる。
「千鶴ちゃん、一君たら全然食べもせずにお酒ばっかり飲んでるからちょっとだけ酔っちゃったんだよ」
「お酒?」
「うん。ウーロンハイ」
「……沖田先輩、もしかして、それを烏龍茶っていって飲ませたんじゃ…」
「えー? なんで僕がそんなこと」
「でも、一先輩は未成年の飲酒はダメだって自分で言ってました!」
 白を切る沖田に、千鶴が迫る。ぼんやりとした頭でも、それは面白くない光景だった。
 千鶴の左手をぐいと引っ張り、自分と向き合わせる。そして、ずっと存在を主張し続けていた小箱をポケットから取り出した。
「千鶴、お前が大学を卒業したら――俺と結婚してくれないか」
「、はじめ、先輩……?」
「……嫌か?」
「そんな、そんなことないです! 私を一先輩のお嫁さんにしてくださいっ」
 望む返事を得た斎藤は、そのまま握っていた手の薬指に小箱から取り出したリングをはめた。
 周りから湧きあがった拍手やヒュー! と冷やかすような声に我に返ったときには、既に衆人環視のもと求婚するという斎藤らしからぬことをしてのけた後だった。



*     *     *


 時は流れ――。

 はらり。はらり。
 春爛漫の日本庭園。太鼓橋を行く紋付き袴姿の斎藤と、白無垢に綿帽子をふんわりとかぶった千鶴の姿があった。
 千鶴の大学の卒業式に現れ「約束通り、迎えに来た」と手をとった斎藤に満面の笑顔で応じてから約一ヶ月後のことである。
 千鶴の希望で、ごく親しい者だけを招いての人前結婚式となった。

 貧しかった斗南では、千鶴に白無垢を着せてやることもできなかった。その千鶴が、紛れもなく自分のために白無垢を纏った姿がまばゆくさえ見える。
 招いた客人たちの待つ広間に着き、粛々と挨拶をして並んで腰を下ろす。
 つい、隣に端座した千鶴に視線が向いてしまうのを自覚して、何とか前を向いた。
 司会の進行に従い、式が進んでゆく。
 そして。
「続きまして、新郎新婦による誓約の言葉です」
 まっすぐに見据えた先には、それぞれに和服で正装したいつもの面々。
 一瞬、今が平成であることを忘れ、懐かしい“あの頃”に戻ったのかと思うほどに既視感を覚える光景があった。
 叶うならば、明治の世で見たかった――。
 そんな思いがよぎるが、立会人として最前列に座した近藤と土方の姿に意識を現実へ戻した。
「斎藤一は妻たる千鶴と、彼女の在る限り共に生きることを誓います」
 隣の千鶴が軽く息を呑んだ様子が窺えた。
 今度は決して、千鶴をひとりにはしない。一分一秒でも千鶴より長く生きる。それが、かつて「新選組」が大切にしていた娘を娶りながら、最後まで幸せにできなかった自分にできる贖いだった。伸ばした手を取ってくれた千鶴を手放すことができない自分にできる、たったひとつのことだと思ったから。
「私、は……いつまでも変わらず、斎藤一の妻でありたい…です」
 “愛”などという言葉はなくとも、それは斎藤の心の深くまでしみこむ言葉だった。
「斎藤君、雪村君、幸せになるんだぞ!!」
 瞳を潤ませながら、近藤が斎藤と千鶴の手をとって笑う。隣に立つ土方もまた、穏やかな表情で三人を見守っている。さらに、その後ろから。
「一君、絶対千鶴のこと幸せにしてくれよな!!」
「酔わなきゃ指輪も渡せなかった一君が、すっごい成長したもんだよねぇ」
「総司。あれはお前が騙して酔わせたんだろうが。それに、こんな時くらい素直に祝ってやったらどうなんだ?」
「えー、イヤですよ。僕ってそんなキャラじゃないしー?」
「千鶴ちゃん、斎藤に泣かされたらいつでも俺のところに来ればいいからなー!!」
「新八っつあん、何縁起悪いこと言ってんだよ」
「はいはーい! 盛り上がるのは良いけど、まだ大事なイベントが残ってるんだから静まる! 千鶴ちゃん、斎藤さん、婚姻届に署名捺印して頂戴!」
 それまで丁重な言葉遣いで司会進行をしていた千姫が打って変った調子でまくしたてた。
「次は立会人の署名ね! 近藤さん、土方さんお願いします」
 強引に式は進められ、無事に指輪交換を終えると、そのまま披露宴へ雪崩れ込んだ。
 千姫の主導で全員の集合写真を撮り、食事が運び込まれ、各々が歓談に入ったころ。
 大いに盛り上がるその場から、そろりと抜け出した千鶴に気づくと、斎藤も広間を出た。千鶴を追って出た先には、最初に歩いてきた純和風の日本庭園。
 真白を纏った娘は、庭に咲く桜の古木の下に立って宙を見上げていた。その視線の先、年を経た古木の花びらは、光を受けて雪のような白さで舞い落ちてゆく。
 その姿があまりにも絵画のようなうつくしさだったので、斎藤は声をかけるタイミングを逸したまま立ちすくんでいた。

「……あれ、一先輩?」
 斎藤に気づいた千鶴が駆け寄ってくると、顔を見上げてきた。少しずれてしまった綿帽子を整えてやりながら、呼ばれた名に違和感を覚える。
「千鶴。お前はもう俺の妻であって後輩ではない」
 告げれば、はたと気づいた様子の千鶴が、悪戯っぽく笑って見せた。
「ふふ、そうでした。じゃあ……一さん、ですね」
「千鶴」
「一さん、」
「ちづる、」
 名を呼び合うにつれ、近づいた距離がやがて――零になる。
 短くも長いくちづけを交わしたふたりは、寄り添うように桜を見上げた。

「一さん、花びらが」
 斎藤の肩に手を伸ばした千鶴が淡い桃色の花弁を取る。
 再び、既視感を覚える状況だった。今なら、ただ“懐かしい”だけではなく、この感情の出所もわかる。
 かつて、何度となくふたり並んでみた桜。そして、千鶴に桜の花びらを与えて、新選組を抜け御陵衛士となった別れの日。
「……今度は、その花びらを俺にくれないか」
 別れの証は返してもらおう。もう二度と、そんな日は来ないのだから。
 花びらを手渡す千鶴の手が震えていた。潤んだ琥珀色に動揺し、「なにゆえ…」と呟けば、
「ごめんなさい、あんまりにもしあわせで……夢、みたいで」
「夢ではない」
「……はい」
「これからは、ずっと一緒だ」
「はいっ」
 堰をきって溢れた涙を拭ってやり、そのまま腕の中へと抱き寄せる。
 ――末永く、共に。
 遠い日の自分の願いは、この手で、この命で。時さえ越えて叶えてみせると誓った。

 それが、俺にとっての、微衷の形。



(2012.08.27//24/7
【微衷録】1月テーマより再録
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