雨が続く梅雨空の下、小さな命が繋いだ出逢いは植木の陰で。




6月 紫陽花と傘の庭





 ぽつ。
 ぽつり。
 珍しく曇天で踏みこたえていた空が再び泣きだしたようだ。
 千鶴は空を見上げてひとつ溜め息をつく。じめじめと空気は湿度を含んで肌にまとわりつき、晴れ間の見えない空は気分を憂鬱にさせる。
 折り畳み傘を取り出そうと鞄の中を見たところで、あるべきものがないことに気づいた。
「…あれ?確かに持ってきたはずなのに…」
 記憶を探れば、朝の時点では確かに桃色の折り畳み傘が鞄の隅に入っていたはずで。
(そういえば…、資料集が大きくて入らないからいったん出して机の引き出しに入れたんだったっけ)
 思い出すと、昇降口から教室に戻るため、踵を返した。

 教室に戻ってみると、案の定、窓際の千鶴の机の引き出しの中に見知った傘がきちんと置いてある。
「良かったー」
 担任の土方に呼ばれて仕事を手伝っていたため、既に教室には誰も残っていない。
 暗くなる前に早く帰ろうと思いながら、何気なく窓の外に視線を向ければ、中庭に黒い傘が広げられている。
(誰かの忘れ物…?)
 この梅雨時、傘を忘れるひとなんているのだろうか。それも、広げた状態で。
 思わず、覗き込むように下を見ていると、傘が動いた。
 どうやら、傘は地面に置かれていたのではなく、その陰で人がしゃがみこんでいたらしい。
 中庭には随所に花が植えられ、整えられた空間が広がっているが、この雨の中好き好んで外に出る人間はいない。咲き乱れる紫陽花は、教室から遠目に目を楽しませてくれるだけだ。そんな場所にしゃがみこんで何をしていたのだろうか。
 千鶴が見ている間に、立ち上がった傘の下から男子の制服のズボンが見えた。顔は見えないが、彼は紫陽花の植木の陰をしばらく眺めた後、その場を立ち去る。
(…何かあるのかな?)
 興味をひかれ、彼の立ち去った後の中庭を見つめていたが、やがて19時を示す鐘が校内に鳴り響き、弾かれたように千鶴も教室を飛び出して帰路についた。


 週明けの月曜日。週末の間降り続いた雨は昨夜からやんでいる。
 千鶴はいつものように早めに登校するべく家を後にした。(転校初日の遅刻は教訓として千鶴の中に刻まれている)
 人影のまばらな校門を過ぎたところで、ふと先日の放課後のことを思い出した。
 一瞬迷って、時間はたっぷりあるのだからと中庭に回ってみることにする。

 紫陽花の花がみずみずしく咲き乱れる中庭。
 千鶴は自分の教室の場所と植え込みを確認しながら、先日黒い傘を目にした辺りまで歩いてきた。
「ここら辺…だったと思うんだけどな…」
 きょろきょろと周りを見回しながら紫陽花の陰を端から順に見ていくと、「ニャー」と小さな声。
「わ、子猫…!」
 そこにいたのは地面に伏せるような体勢で千鶴の方を見ている、まだ小さなトラ猫。
「あのひともこの子に会いに来てたのかなぁ?」
 千鶴は子猫の前にしゃがみこむと、そっと手を伸ばした。口元に手を差し出し、喉元を撫でてやる。
「あなた、ずっとここにいるの?」
(ごはんとか、ちゃんと食べてるのかな…?)
 咄嗟に手持ちのもので何か子猫にやれそうなものはないかと考えるが、生憎適当なものがない。
「――また後で来るね!」
 帰りにミルクでも買って持ってこようと決めると、千鶴は教室に向かった。


 6時間目の授業中。黒板に書かれる数式をノートに写し取っていると、雨が窓をたたく音に気づいた。
(あの子が濡れちゃう…!!)
 窓の外にちらちらと視線を送るも、子猫の姿は見えない。植木の陰で雨をしのげているのだろうか。気になって仕方ないが、まさか授業中に教室を飛び出すわけにもいかず、落ち着きなく授業が終わるのをまだかまだかと待った。
 6限目終了の鐘がなり、数学の教師に代わって担任の土方が教室に入ってくる。手際よく連絡事項が述べられ、終礼が終わった。
 教室掃除ができるように机を下げ終えると、千鶴はそのまま手に傘とタオルを持って中庭へ向かう。
 把握した場所へ一目散に駆けつけると、子猫は小さくなって眠っている。
 千鶴は濡れた毛並みにそっとタオルをあてて拭ってやる。目を開けた子猫と目が合った。
「毎日雨なのに濡れちゃうね…」
 やはり、紫陽花の植え込みの下にいても完全に雨露がしのげるわけではない。
 どうしたものかと千鶴が考えていると、それまで丸くなっていた猫が身を起こして横を駆け抜けていった。
 驚きながらも、その姿を追って振り返ると、そこには黒い傘を差した男子生徒と、その足元で立ち止まった子猫の姿があった。
 黙ったまま立つ相手に、千鶴は立ち上がって声をかける。
「…その子のこと、いつもあなたがお世話されてるんですか?」
 彼の手にあるパック牛乳を見ながら尋ねれば、「ああ」と言葉少なく肯定が返ってきた。
「いつから…?」
「半月ほど前から、だな」
「そうなんですか…。私もミルクを買ってこようと思ってたんですけど、雨が降り出したのを見たら忘れてました。いつもあなたがこの子にミルクをあげてるんですか?」
「…そうだ」
 言うと、植木のそばまで来た彼はしゃがみこみ、傘で雨のかからないところに小さな器を置いてミルクを注ぐ。彼の足元にひっついて移動した子猫がペロペロとミルクを飲むのを見つめる目がひどくやさしいもので、とっつきにくそうに見えてやさしいひとなのだろうな、と千鶴も笑みを浮かべて一人と一匹の様子を見つめた。
 そっとそばにしゃがみ、子猫を見ながら「この子、ずっとここにいたら濡れちゃいますね…」と呟くと、視線を上げた彼の青い目がまっすぐに千鶴を捉えた。
「誰か貰い手がないか、探してはいるのだがな…」
「そうなんですか…。うちの家は父が動物アレルギーなんですよね…」
「俺も寮生活で動物を飼うことはできん」
「……私も誰か飼ってくれる人がいないか、周りに聞いてみますね!こんなにかわいい子なら、きっと引き取り手が見つかると思うんです!」
 ポケットから携帯を取り出すと、無心にミルクを飲む子猫の写真を撮る。桃色の舌を出してミルクを飲む姿は、動物好きなら思わず撫でたくなるかわいさだ。「ほら!かわいいです!!」と携帯の画面を見せながら笑うと、「そうだな」と微笑み返された。

「あ、私、2年の雪村千鶴っていいます」
「俺は3年の斎藤一だ。…引き取り手が見つかったときは、連絡をもらえるだろうか。携帯のアドレスは…」
 携帯を取り出す斎藤に千鶴もアドレス帳を表示する。
「それなら、私のもお知らせしておきますね。赤外線はありますか?」
「ああ」
 互いの連絡先を交換したところで、ミルクを飲み終えた子猫を斎藤が一撫でした。
「私、明日小さい段ボールを持ってきます!それを立てて置いたら、しばらくは雨露をしのげると思うので」
「そうか…。では、頼む。俺は新聞紙を割いてもって来よう」
「はいっ!!」
 翌朝、8時に中庭で会うことを約束し、二人はそれぞれ家路についたのだった。


 それから一週間後。
 子猫は千鶴の友人である鈴鹿千姫のもとへ引き取られることになり、梅雨の晴れ間の下、千鶴と斎藤に見送られながら新たな家族のもとへと旅立ったのだった。



ス ク ー ル デ イ ズ



(2010.09.10//カカリア
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