七夕の夜は生憎の雨だった。 7月。空いた時間に子猫に会いにいく必要もなくなり、期末試験を一週間後に控えた放課後、千鶴は友人である千姫と共に自習室で勉強してから帰ることにした。 白鴎高校は進学校ということもあり、施設はそれなりに整っている。図書室のほかに自習室が用意されており、こちらはグループで勉強する際、多少は声を出して話していても良いことになっている。そのため、勉強の教え合いをしやすい。 オープンな雰囲気の設計になっている自習室に入ると、千鶴はきょろきょろと周りを見渡し、空席の確認をした。期末試験前ということもあり、それなりに混みあっている。 「千鶴ちゃん、あそこ!」 控えめな声で示された方を見れば、丸テーブルに一人腰を掛けて勉強している見知った姿があった。 「…斎藤先輩?」 そろそろと近寄って声をかけると、彼は落ち着いた動作で顔を上げて千鶴を認めた。 「雪村か。久しぶりだな。…あんたも勉強しに?」 「はい。期末試験の勉強が家だとはかどらないので、お千ちゃんと一緒にやろうと思って」 そこで斎藤は千鶴の横に立つ千姫に視線を移した。 「先日は世話になったな」 「いえ。あんなかわいい子なら大歓迎なので。よかったらまた今度、千鶴ちゃんと一緒に会いに来てやってくださいな。あの子、斎藤さんにすごく懐いてたから喜ぶと思います」 「そうか。――ところで、勉強しに来たのなら、ここに座ればいい。もっとも、あんたたちが嫌でなければ、だが」 「でも、斎藤先輩もどなたかと一緒にいらしたんじゃないんですか?」 図書室ではなく自習室を選び、尚且つグループで使うことの多い丸テーブルを使っている斎藤に千鶴が尋ねると、彼はいや、と否定した。 「連れは先に帰った故、今は俺だけだ」 「…そしたら、ご一緒させてもらいますね。――お千ちゃんもいいかな?」 「勿論!」 そうして千鶴と千姫は斎藤と一緒に勉強することになり、わからないところをああでもないこうでもないと言い合っているふたりを見かねた斎藤が解説を加えての勉強会となった。別れ際に「ありがとうございました!先輩の説明はすごくわかりやすかったです!」と頭を下げる千鶴に、「…もし良ければ明日も此処に来るといい」と告げた斎藤によって、放課後の勉強会は期末試験が終了するまで続くことになる。 そして。 ついに期末試験が終わり、持てる力を出し切って闘った後に待っているのは、山のような宿題と、真夏の日差し。 ――夏休みが始まった。 千鶴と千姫は、平助の誘いで彼の部活の先輩を交えた一泊二日の旅行に来ていた。 平助の部活の先輩のうちの一人が、実は斎藤だと知ったときはその偶然に双方が驚いたものだった。(斎藤は平助のクラスメイトも一緒に行くことになった、としか聞かされていなかったし、千鶴もまた斎藤が剣道部に所属していることを当日初めて知ることになった)さらには、既に顔見知りだという斎藤と千鶴と千姫に、そんなことは全然聞かされてない、と平助も驚いていた。 そんなメンバーの残りの一人が、斎藤のクラスメイト兼部活仲間である沖田総司である。なんでも、彼らと平助は昔から通っている剣術道場でよく知った仲だということだった。 昼間はホテルの近くの海で泳ぎ、夜になってホテルが出すバスに乗って少し離れた海水浴場に来ていた。今回の旅の目的、ウミホタルである。 時は少しばかり遡り、7月8日。 最後の試験を終えた千姫が千鶴の席へ雑誌を持ってやってきた。 「ねぇねぇ千鶴ちゃん!これ見て!」 千姫が指差す先には“地上の星、ウミホタルを見にいこう”という文字があった。ぎっしり並んだ文字はここから少し離れた島の観光イベント情報だ。 「地上の星かぁ…。私、ウミホタルって見たことないな」 「私もないわ。ただのホタルなら見たことあるけど」 「そうなの?…ウミホタルってどんなのなんだろう。昨日は雨で天の川も見られなかったし…」 「なになに?何見てんの?」 話に入ってきた平助に雑誌を見せたところから旅行計画が決まったのだ。 バスから降りると、最低限の明かりだけが灯る真っ暗な海にテトラポッドが広がっていた。横手にテトラポッドを見ながらコンクリート製の防波堤を進む。 「雪村。そちらは海だ。視界も悪いゆえ、こちら側を歩け」 夜の海が物珍しくてきょろきょろしながら歩いていると、背後から声がかかった。 「あ、はい」 さりげなく千鶴を陸側にかばうように海側を歩く斎藤に、「ふーん…一くん、そういうことするんだ…」と沖田が面白そうに唇に弧を描く。 「なーなー、千鶴!楽しみだなー!!」 斎藤と千鶴の間に割り込むようにして平助がいうと、千鶴は満面の笑顔でうなずいた。 「はい、みなさん!では、ここから先は進まず、一列に並んでお待ちください!」 大きめの懐中電灯を手にした係員らしくき人物の案内に従って足を止め、一列に並んで海を見つめる。寄せては返す波、遠い対岸にほのかに灯る明かり。 「私、夜の海って好きだな」 呟く千姫に、千鶴は緩く首をかしげた。 「そうなんだ…。私はちょっと怖いかな。真っ暗で、底が見えなくて、引きずり込まれそう」 「うん、確かにそうよね。でも、目を閉じて音を聞いてるとホッとするというか…なんだろ、よくわかんないや」 「音…」 千鶴は目を瞑り、耳を澄ました。横では平助と沖田が何やら賑やかに話している。話し声を意識の向こうに押しやってただただ波の音に集中した。防波堤の内側のためか、昼間泳いだ砂浜のように波は打ち寄せてこないが、たぷんたぷんと揺れる音が意識を満たす。すべてが遠くなり、どこか懐かしささえ感じる穏やかな音が心地良かった。 「――本当、なんだか懐かしいような気持ちになるね…」 「羊水に包まれていた頃を思い出すのやもしれんな」 「先輩…、そうですね。みんなお母さんのお腹の中では水に包まれてたんですよね」 夏休みということもあり、長い人の列ができたところで、ようやく担当者がウミホタルの説明を始めた。 「ウミホタルは甲殻類に分類される生き物です。カニやエビの仲間ですね。大きさは3ミリほど。夜行性で砂地の海底に生息しており、昼間は砂に潜って休んでいます。発光するのは求愛と捕食者回避のためで、刺激を与えると青く光ります」 透明の容器を持った係員が一列に並ぶ客に中身を見せながら説明の後を継いだ。 「この水の中の黒くて小さいのがウミホタルです」 懐中電灯に照らされた容器の中には、なるほど、無数の黒いものが見える。 「少し大きいのがメス、小さいのがオスです」 「メスの方が大きいのね」 「そうみたいだね」 一通り容器の中を泳ぐウミホタルを見せ終えると、ウミホタルは少しの光でも発光しなくなるため、携帯電話やカメラで写真を撮る際はフラッシュをたかず、夜景モードで撮影するようにとの注意喚起があった。そして列の両端からペットボトルに入れた海水とウミホタルを持った係員が地面に中身を撒いていく。すると、コンクリートの地面に青く光るウミホタルが散り広がった。 「きれい…!!」 人々がどよめき、歓声が上がる。 「すげー!!」 「確かに“地上の星”みたいね」 「うん!まるで天の川みたい…!」 屈んだ千姫が光るウミホタルを指先に取ると自分の指の付け根につけて見せた。 「見て見て、千鶴ちゃん!サファイアの指輪!」 「本当!青くてきれい!」 「へー、きれいだね。じゃあ、僕から千鶴ちゃんにも指輪をあげるよ。ほら、左手だして」 沖田に言われるままに千鶴が左手を差し出すと、彼はその手の蒼玉を千鶴の薬指の付け根にちょん、とくっつけた。 「おま、総司!左手の薬指…!!」 「ふふん、悔しかったら平助くんもあげたら?エンゲージリング」 「エンゲージリングって…ただのウミホタルだろ!!」 「ふーん、平助くんにはそう見えるんだ?ならそう思っとけばー?」 「な、なんなんだよ!そう見えるも何も、ウミホタルだろ!?」 「……平助、落ち着け。からかわれているだけだ」 目の前で繰り広げられるやりとりに、千鶴はくすくすと笑う。 「仲良いわねー」 「うん。羨ましいよね。あんなお友達がいるって」 「ち・づ・る・ちゃん?私がいるのにそんなこと言う?」 「ち、違うよ!お千ちゃんは私の自慢のお友達だもん!!」 「ふふ、ありがとね。千鶴ちゃんも私の自慢の友達よ?」 「みなさん、光らなくなったら、靴の裏で軽く踏んでみてくださいねー!また光りますから」 係員の説明に従い、皆が自分の前の辺りを歩いたり足踏みしてみたりすると、再び幻想的な星空が眼下に広がった。 「ほら、一くんも立ち尽くしてないで歩いてみなよ。歩いた跡が光りだすなんて面白いじゃない?」 沖田に背を押されるように光らなくなったコンクリートの上を歩く斎藤。その後ろに平助に手を引かれた千鶴と千姫が続く。ぐるぐる。きらきら。 なんとなく前を歩く斎藤を見ていた千鶴は、ふと思い至って声をかけた。 「斎藤先輩!ちょっと靴の裏を見せてください」 立ち止まった斎藤が不思議そうに、足を上げた。靴の裏にはたくさんの青い光。 「やっぱり!靴の裏までウミホタルがたくさん付いてます!!」 千鶴の言葉に、平助や千姫も自分の靴の裏を確認し、光る靴底に歓声を上げた。そのまま、水が撒かれていないところを歩けば、靴底についたウミホタルが地面に付いて淡く光る。 「星を生むひと、みたい」 千鶴の呟きに、そうだな、と肯定が返る。 顔を上げれば、天の川を挟んで向かい側からこちらを見つめる斎藤の姿。 手を伸ばせば届く距離。でも、千鶴が手を伸ばすことはない。 「本当に、きれいですね。みんなで見に来れてよかったです!」 ただ、微笑みだけを返して。すると彼も口元に笑みを刷いたように見えた。 (2010.09.16//カカリア) |