「雪…積もってたんだ…」
 火照る頬を冷やそうと外に出れば、濃紺のヴェールに包まれた空の下、地面を真白な雪が覆っていた。
 吐く息の凍る冷たい空気の中、淡く発光しているかのようにも見える大地。声を出すことをためらうような静寂に、扉の向こうの喧騒が掻き消えていた。既に舞い落ちてくるもののない空は深い藍の色。――彼の瞳の色。




12月 白のサンクチュアリ





「寒いー!」
「風、きついね…」
「ニュースで、今年はホワイトクリスマスになるかもって言ってたぜ?」
「そうなの?」
 期末テストが終わり、終業式も終えた12月半ば。本来ならば冬休みに突入している時期ではあったが、白鴎学園は進学校である。補講と称して毎日朝から授業があり、それは年の瀬ぎりぎりまで続く予定だった。
 千姫と千鶴が帰ろうとしているところへ追いついてきた平助が会話に割り込んだ。
 「ホワイトクリスマス」といえば良い響きではあるが、イブは金曜日。普通に授業がある。雪が降ると登校が大変になるわね…と考えてしまったところで、千姫は自分の思考が冷めていることに内心嘆息をついた。隣で「ホワイトクリスマスかぁ…。ロマンチックだね」と口元で掌を合わせて空を見上げている千鶴を見れば、余計にその思いも増すというものだ。
 寒さゆえに頬と鼻先をほんのり色づかせた千鶴が、まだ雪も降っていない空をきらきらした瞳で仰ぎ見るのを見て、千姫はよし、と己の思考を切り替える。
「ねぇねぇ、千鶴ちゃん!折角ホワイトクリスマスになるのなら、クリスマス当日にうちの家でクリスマスパーティーしない?土曜日なら学校もないから、斎藤さんたちも誘えるんじゃない?」
「でも、土曜日は剣道部の練習があるんじゃ…」
「いや、今週は自主練も中止なんだ。…うちの顧問が『何が悲しくて男くせぇおめぇらとクリスマスを過ごさなきゃならねぇんだ。中止だ中止!』って」
「剣道部の顧問って、土方先生だよね…?」
「そうそう。あの人、モテっからさー。デートの約束でもあんじゃねぇの?――そういうわけだからさ、そのパーティー、オレも行っていいよな!?」
「ホラ、千鶴ちゃん。藤堂さんは乗り気みたいだけど?」
「う、うん…。でも、先輩は受験前だし…」
「とりあえず、誘ってみるだけ誘ってみればいいじゃない!無理だったら斎藤さんならそういってくれると思うけど?」
「そう…だね」
「そうと決まったら、善は急げ!メールしなきゃ!」
「あー、一くんなら、最近は遅くまで図書室に残って勉強してるみたいだから、今から行けば会えんじゃね?」
「――だそうよ?千鶴ちゃん!」
 ウインクして親指を立てた千姫に、千鶴はこくりと頷くと校舎内へとってかえした。


 図書室に着くと、すぐに見知った姿を見つけることができた。
 そろそろと近づき、斎藤の座る席の横に立つと、ノートの上に落ちた影に気づいて藍の瞳が千鶴を映した。
「ちょっとだけ…お時間、良いですか?」
 囁くように尋ねると、首肯した斎藤が席を立って廊下へ出ていくので、千鶴もその後を追った。
「――何か用か?」
 図書室のあたたまった空気と比べ、ひんやりとした廊下で向かい合った斎藤が問うた。
「あの…今度のクリスマスなんですけど、お千ちゃんがおうちでクリスマスパーティーをしようって言ってくれてて…、もし良かったら沖田先輩とご一緒に先輩もいらっしゃいませんか?受験勉強でお忙しいのは分かってるのですが…」
 なんとか言い終えたものの、斎藤からは反応がない。
「……あ…もしかして、一緒にクリスマスを過ごされる方がいらっしゃるのなら、もちろんそちらのお約束を優先してくださいね?」
「一緒に…?」
「は…い。あの……恋人、がいらっしゃるなら、クリスマスは一緒に過ごされますよね…?」
 千鶴は、9月にあった文化祭のことを思い出していた。ずっと気になっていた、斎藤とキスをしていたオーロラ姫役のきれいな人。彼女が斎藤の恋人なのだといわれれば、千鶴がクリスマスを一緒に過ごしたいなどとわがままを言える余地はないのだ。ずっと気になっていたことを咄嗟に口にしてから、千鶴は斎藤を直視できなくて視線を落とした。
「なにゆえそのようなことを」
 ――なにゆえ。
 それを千鶴に訊くのか。
 千鶴は掌をぎゅっと握り、唇を噛みしめてから決意と共に顔を上げた。
「――だって、先輩は「いない」
「え…?」
「なにゆえそのようなことを考えたのかは知らんが、俺にはクリスマスを共に過ごすような存在はいない」
「いない…?」
 オウム返しに斎藤の言葉を繰り返すことしかできなかった千鶴に、斎藤は力強く肯定を重ねた。
「そうだ。いない。雪村や鈴鹿が構わぬなら、パーティーにも参加させてもらおう」
 そこから先、千鶴はどう当日の予定について説明したのか覚えていない。ふわふわする意識の中、斎藤の言葉だけが何度となく響いていた。


「みなさんいらっしゃい!」
 昼からしていた準備を終えた千姫と千鶴のもとへ、夕方になって平助、沖田、斎藤らが合流した。
「お邪魔しますー。ふたりとも、今日は気合入ってるね」
「ふふ、千鶴ちゃんきれいでしょ!雪色のワンピース!私がお洋服を選んでお化粧もしたの。折角のクリスマスパーティーなんだから、おめかししなきゃ!」
「千鶴、すっげーきれい」
「そ、そうかな…?ありがとう、平助くん」
「あーあ、オレ、クリスマスだからってサンタ服とか持ってきたし…。もっとカッコいい服できめて来るんだった」
「へ〜?平助くん、サンタ服持ってきたんだ…。それは着ないともったいないねぇ?」
「げ…総司。オレだけサンタとか絶対イヤだからな!」
「まぁまぁ、そういわずにさ。折角持ってきたんでしょ?僕らにプレゼント頂戴、サンタさん」
 戯れながら中に入っていく沖田と平助を横目に、千姫はまだ玄関先で立ったままの斎藤に視線をやった。
 斎藤はじっと千鶴を食い入るように見つめている。
「斎藤さん、千鶴ちゃんきれいでしょ?」
 千姫が声をかけると、ようやく我に返ったらしい斎藤は気まずそうに視線をそらしながら「あ、ああ」と口にしたが、褒められた当の本人もまた目を伏せて赤くなっている。
 そこへ、茶色い縞模様の背中が駆け寄って来たかと思うと、斎藤の足元へすり寄るようにじゃれついた。
「ああ、あんたか…。随分大きくなったものだな」
 しゃがんで撫でてやると嬉しそうにゆらりと尻尾を振る。
「良くしてもらっているようだな…」

「あの子、ちゃんと斎藤さんのこと覚えてたんだ…」
「うん。私はときどきお千ちゃんのおうちに来てるけど、先輩は今日が半年ぶりの再会なのに…やっぱり助けてもらったのは忘れないんだね」
 喉を撫でられてごろごろと気持ち良さそうにしている愛猫をしばしの間見守っていた千姫だったが、「折角のお料理が冷めちゃいますし、中に入ってください」と声をかけた。
「千鶴ちゃんが腕をふるってくれたので、絶対おいしいですよ!」
「それは楽しみだな」

 洋風のダイニングルームにはシャンデリアが輝き、良い香りが漂っていた。
 テーブルに並べられた料理に、先に入っていた沖田と平助も目を瞠っている。野菜と白身魚のテリーヌ、トマトと卵のスープ、ローストビーフに煮込みハンバーグ、マルゲリータピザ、照り焼きチキンピザとかぼちゃサラダに彩り豊かな野菜盛り。ほくほくと香ばしい匂いの皮付きポテトもある。
「すげー!!これ、ふたりで作ったのか?」
「調理は主に千鶴ちゃんよ。私はサイドサラダを作ったり、千鶴ちゃんの補助にまわったり。私の母にも少しだけ手伝ってもらったけどね」
「へー、すごいね。さすがクリスマスってところかな?」
 口々に褒める平助と沖田に照れながら、千鶴はふと平助の装いの変化に気づいた。
「平助くん、サンタさんの服に着替えたんだ…。かわいい!」
「…ほら、千鶴ちゃんも褒めてくれてるじゃない。よかったね?平助くん♪」
「かわいいって言われてもな…。総司は面白がってるだけだろ」
「でも、クリスマスパーティーならサンタさんの一人や二人いたほうが良いに決まってるし?」
「あー、はいはい。だからちゃんと着替えただろ?」

「じゃあ、みんな揃ったところで乾杯しなきゃね!」
「え!酒あんのか!?」
「はーい、残念!未成年なんだから大人しくジュースよ!」
「ちぇ!!」
 平助の声に笑いが起こり、それぞれが好みの飲み物をグラスに注ぐと乾杯した。
「今年も残すところあとちょっと。頑張っていきましょう!メリークリスマス!!」
「「「「メリークリスマス!!!」」」」

 千姫の手でさりげなく斎藤の左側の席におさまった千鶴は、更に自分の左に座っている千姫と話しながら食事を進めていた。空腹だったらしい平助は「うめー!!」と声を上げながら次から次へと料理に手を伸ばし、沖田も「サンタさん、行儀悪いよ?」などと平助をからかいながら食べ進めている。ちらりと斎藤を見れば、一通りのメニューを皿の上にとって黙々と食べていた。
 洋風のメニューではあるが、綺麗な箸使いで次々に料理を平らげていく様をなんとなしに見つめていると、視線に気づいた斎藤が千鶴の方へ振り返った。
「あんたの料理の腕は相当なものだな。どれも美味い」
「喜んでいただけたなら嬉しいです…ありがとうございます」
 空になった皿に、斎藤は再びテーブル中央に並ぶ料理皿へ手を伸ばす。
「あっ!最後の照り焼きチキンピザが!!」
「悪いが、早い者勝ちだ。諦めろ」
「だね。今のは明らかに一くんが先だった」
「あー、はいはい。良いよ、オレはこっちのマルゲリータ食べるし!」
「藤堂さん!サンタ服にハンバーグのソースがつきそう…!!」
「うわっ!あっぶねー!!」
 賑やかに盛り上がる食卓。自分の作った料理がこの場を作るのに少しでも役に立てているのなら、それほど嬉しいことはない――。千鶴はにこにこと皆のやり取りを見つめていた。

「――雪村は食べないのか?」
「え?」
「先程から手が動いていないようだが…、もしや、このピザが欲しかったのか?」
 斎藤は、一口食べかけた照り焼きチキンピザを示しながら問う。
「あ…ち、違います!皆さんが楽しそうに食べて下さってるのが嬉しくて…」
「……」
 顔の前で手を振って否定する千鶴に、斎藤は何かを考えるように沈黙した。
 そして。
「…俺たちばかり食べて、あんたはピザを一枚も食べていなかっただろう。気が利かずすまない。――こちら側はまだ口をつけていないゆえ、食べるといい」
 右手でピザが落ちないよう下で受けながら、左手に持ったピザを千鶴の口元へ差し出す斎藤。動揺して拒もうとする千鶴を許さず、より口元へ近づけてくる。
 観念した千鶴が小さく口を開けてピザをかじると、モッチリとした生地と香ばしいチーズの香り、甘辛い照り焼きチキンが口の中に広がった。まだまだあたたかいピザのチーズが千切れずに細く長く伸びる。
 斎藤が左手を引いたが、チーズは切れないまま。千鶴が顔を引いてもそれは変わらない。
 すると――。
 不意に斎藤の顔が近づき、千鶴の口から伸びる淡い黄色の糸を、その唇で噛み切った。ようやく切れたチーズにホッとするのも忘れて、千鶴は開いた瞳孔のまま垂れたチーズの糸の先を指で口に運ぶ斎藤を見つめる。
「味はどうだ」
 平生のまま尋ねてくる斎藤に、千鶴は答えられずに視線を泳がせた。顔が熱い。他意のない仕草がこんなに心臓に悪い人も少ないのでは――。そう思わずにはいられない。
 ろくに咀嚼もせず、ピザを飲み込んだ千鶴は「ちょっと、すいません」と言いおいて逃げるようにテラスの外へ出るのだった。


 千鶴が席を外してからしばらく。斎藤はまだ戻らぬ千鶴を追ってテラスから外へ出た。きりりと身の引き締まる空気の冷たさは、早朝の道場に似ている。
 反射的に閉ざした瞼を開けば、そこにはうっすらと発光する月白(げっぱく)の世界。そして――雪色のワンピースの華奢な背中。
 一心に宙を見上げているらしいのその背に一歩だけ近づくと、斎藤もまた千鶴の視線を追うように濃藍の空を仰いだ。
 音のしない夜だった。
 先程までの喧騒が嘘のような静寂。
 言葉もなく見上げた先から――。

「――あ、」
 細く空気を震わせたのは、少し離れた場所に立つ少女。ふわりと広がる袖首から覗く細い腕が宙に差し出され、その掌に淡雪が落ちた。真っ白なワンピースに真っ白な雪。ここは人の立ち入ってはならぬ聖域で、彼女は雪の精のようだ、などと普段の斎藤らしからぬことが脳裏をかすめた。しかし、それも一瞬のこと。
「…今のが最初の一粒だったようだな」
「え…?」
 まったく斎藤の存在に気づいていなかったらしい千鶴が目を見開いてこちらを振り返った。
「雪の白さは…雪村、あんたに似ているな」
 千鶴の隣に並んだ斎藤は、手にしていたコートを千鶴の肩にかけると、先程の彼女と同じように舞い落ちる雪に手を伸べた。しかし、ふわりふわりと落ちる雪はなかなか掌に納まることなく地面に吸い寄せられていく。
 何度か試みたものの諦めた斎藤は、代わりに千鶴の髪に落ちていた雪をそっと払ってやる。
「――この後はケーキを食べるそうだ。そろそろ中に入れ」
「…はい」
 黙って握られた手に引かれるまま、千鶴は銀世界に背を向けた。
 言葉にできないもの。形のないもの。音もなく降り積もるもの。
 千鶴は、胸の奥でまた積み重なった想いを抱きしめるように空いている方の手を胸に当てた。



ス ク ー ル デ イ ズ



(2010.12.26)
ぎりぎり遅刻のメリークリスマス…!!
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