※斎藤さんとモブの女の子との絡み表現有り。苦手な方注意。




かなしい爪痕





 校門を抜けて校内に足を踏み入れると、運動場で練習に励む学生たちの声がどこか懐かしく響いた。そんな光景を見るともなく見ながら教室に向かう。その戸をくぐるのは一体いつぶりだろうか。昨夜、雪村にクラスを訊かれて答えられた自分にも驚いたが、教室の位置を忘れていなかったことにも驚く。
 ――そう、この教室に入るのは、二度目のはずだった。前回気まぐれに登校したのは、進級した春の始業式だったと思い出す。久々に足を踏み入れた教室は、放課後ということもあってか人影はまばらだった。
 始業式以来姿を現していなかった俺が突然、放課後に来たものだから、クラスメートたち(そうだ、彼らはクラスメートなのだ)は遠巻きに俺を見てこそこそと言葉を交わしている。物珍しいのだろう。注目してしまう気持ちは自分でもわかったから、気に止めることなく足を進める。
(俺の席はまだあるのだろうか…)
 既に一学期は終わり、二学期に入っている。その間、たった一度、それも初日しか現れなかった者の席など残っているのだろうか、と考えるが、一応授業料は口座から落ちているはずなのだから、座席を完全になくすこともできまい。そんなことを思案しながら、何も横にかかっていない机はどれだろうとひとつずつ確認していたところで、背後からよく徹る声が聞こえた。
「斎藤さんっ!!」
 記憶に新しい声で己の名を呼ばれる。考えずとも、この場で斎藤の名を呼ぶ人間などたった一人しかいない。雪村千鶴。確か、初めて出会った日にそう名乗っていた。
 扉の方へ振り返ると、パッと表情を明るくした彼女が教室へ入ってくる。
「お待たせしてすいませんっ!」
「いや、今来たところだ」
「…?授業には出られなかったんですか?」
「昨日も言ったとおり、俺は在籍しているだけでほとんど学校へは来ない」
「あ、そうおっしゃってましたね。わざわざ来てくださってありがとうございます」
 すげなく返した言葉も気にした風もなく流され、にっこりと微笑みながら頭を下げられては二の句を告げなくなる。
 黙っていると、キョロキョロと周囲を見回した彼女が控えめな声で「あの…そのマスクはずっと外されないんですか?」と問うてきた。
 そこで、ようやく、身体の一部になっているマスク(ただのマスクではない。布地には大きく赤いバツ印を書いたものだ)のせいで、必要以上に周囲からの視線を集めているらしいことに気づかされた。
 当然のことながら、これはウイルス対策でしているのではない。まだインフルエンザの時期には早く、現在風邪を患っているわけでもない。
「……必要最低限のとき以外は、このマスクは外さん」
 多くを語って聞かせる必要性は感じないため、事実だけを端的に述べれば、雪村がそれ以上マスクについて追及してくることはなかった。

「そうだ!今日はお礼にこれを差し上げようと思って…」
 自分が手に持っていた手提げを見て思い出したように、甘い香りの漂う紙袋を差し出してきた。
「お口に合うかはわからないんですけど…さっきの調理実習でカップケーキを作ったんです。良かったら召し上がってください。昨日は本当にありがとうございました!斎藤さんが助けてくださらなかったらどうなっていたか…。あ!あと、これも!良ければ使ってください」
 手提げ袋を受け取った後、続いて鞄から紙切れを出して渡された。見てみれば、ハンバーガーショップの割引クーポンらしい。彼女がアルバイトをしているといっていた店のものだろう。
 大方、口止め料――といったところか。
 わざわざ拒む理由も思いつかず、差し出されるままに受け取り眺めていると、「今日もこの後シフトが入ってるんです」と小声で告げ、颯爽と廊下へ姿を消した。
 律儀だが、無理に踏み込んでくることのない距離感は、久々に接することを苦に感じない女だ。既に見えなくなった背中を思い浮かべ、廊下へ出る。
 彼女との約束を終えた今、俺にこの場に残る理由はなかった。今夜は集会がある。


 そもそも、俺は最初からこの目立つマスクをしていたわけではない。
 土方さんの率いるグループに入り、付き合いで女とも遊んだ。遊ぶといっても、口下手で愛想のない俺に構ってくる女は多くはなかった。俺になど構わずとも、土方さんや左之、総司など、チームのメンバーには女にうける顔と性格をしたものがいたためだ。
 しかし、チームのメンバーとして日が浅い頃の俺は、本当の意味で土方さんと同じ場所に立ちたいがために、必死だった。それまでの平凡な日常に、つまらない周囲の人間たちに、別れを告げられるなら。土方さんのような怜悧な強さが欲しくてたまらなかった。それゆえ、土方さんが「女と遊ぶ」なら、「俺も」と彼についていったのだ。
 馴染みらしいクラブへ入った。色とりどりの光が舞い、ひっきりなしに軽快な音楽が鳴り続ける。喧騒は好きではなかった。女の手を取り踊りにいったメンバーを尻目に、次から次へと酒を腹に流し込む。

「――随分飲むのね。大丈夫なの?」
 フルーツの浮かぶ桃色のカクテルを手に、寄って来た女が話しかけてきた。色の抜けた明るい髪、身体の線を誇張するような、挑発的な服装、きつすぎる香水、蠱惑的に言い寄ってくる赤い唇。好ましさとは対極にあるその存在。しかしそのときの俺は少ないながらも言葉を交わし、雪崩れ込むように関係を持った。
「土方さんなら別の子といっちゃったわよ?」
 きっと、その言葉が引き金だった。

 以来、誘われれば応じて関係を持つようになった。決して心を交わしたわけではない。相手は俺の身体を望み、俺はただ土方さんと同じでありたかった。人並みにはある性欲の処理にもなってはいたが、いたって機械的な行為だった。
 それゆえ、暗黙の了解のように、互いの唇に触れることはなかった。口づけすることで、言葉にせずに飲み込んだものさえも否応なく知られてしまう気がした。

 そんな折だった。いつものようにクラブで飲んでいたら、腰をつけるようにして隣に座ってきた女がいた。
「……」
 あからさまな態度に眉をひそめるも、構わず話しかけてくる。
「ね、きみ。いつもつまらなさそうに飲んでるでしょ。――お酒はもっと楽しく飲むものじゃない?」
 てらてらと光る赤い唇。上目遣いに見上げてくる瞳。媚びるようなそれは、既に珍しくはない。
 じっと見つめてくる視線を適当に意識の外に出し、グラスを一気にあおる。間を置かず、女が注文したワインを注がれ、黙って飲み干した。
 ひとしきり飲んだところで、絡められた腕を外し、並んで店を後にした。

「――ねぇ、そういえば…きみの名前は?」
 近場のホテルで身体を重ねた後、身支度を整えようと身を起こした俺に女は問う。
「別に、名など知る必要はないだろう」
「んもう!別に名前くらい教えてくれたっていいじゃない。減るものでもなし。……きみは、喉の奥にどんな言葉を飲み込んでるの」
 ごてごてと爪に装飾の施された指先が、引き結んだままの俺の唇をなぞる。一往復したところで、嘆息を漏らし口を開く。「あんたは何が――」したいんだ、みなまで口にすることはできなかった。
 唇を割って入ってくる舌は、意思を持つ生き物のように蠢き、強引に俺を暴こうとする。流れ込む唾液がどこまでも不快だった。
「――っ、やめろ!!」
 無理やり引き離した女の身体を、品のない色のベッドカバーの上に突き飛ばす。一瞬引いた唾液の糸が気持ち悪い。土足で己のテリトリーに踏み込まれたような嫌悪感が突き上げてきて、乱暴に唇を拭うと即座に服を纏い、その場を後にした。
 むせかえる女の香水に頭の芯が痺れたように侵されているのに堪らず、まだ夜の明けきらぬ街を走り、家に戻るとそのままバイクにまたがった。ただ一人、すべてを払いのけて風の中を疾走する。やがて東の空が見せる黎明の気配の中、早朝特有の匂いが肺を満たすまで、がむしゃらに人影のまばらなビルの谷間を縫ってまわった。

 ――これ以後、俺は女と関係を持つことから完全に手を引いた。寄ってくる「女」を武器にする臭いを遮り、二度と強引に己の内側へ踏み込まれることのないよう、大きなマスクで口元を隠すようになった。見えにくくなった表情の分だけ、喧嘩の際にもこちらに有利だ。
 こうして、俺は我が身の一部のようにマスクをすることを己に課し、やがて習慣として定着したのだった。


「おい。我が妻はどうした」
 校門を抜けようとしたところで、門に寄りかかって待っていたらしい男に行く手を阻まれた。溜め息をつき、仕方なく足を止める。昨日といい、このところよく出会う。
「……風間か。何をしに来た」
「我が妻が昨夜貴様と約束をしていたようだが、今どこにいる」
「…妻ではない、と言われていたのではなかったか」
 俺の言に、風間はあからさまに不快感を露わにする。しかし、口の端を上げ、勝ち誇った表情で断言した。
「あれは照れているだけだ。貴様に口を挟む資格などない。千鶴はどこだ」
「…雪村なら、バイトがあると先に帰った」
 相手をするのも馬鹿らしくなり、さっさと答えて横をすり抜けた。土方さんの、そして俺にとっての敵である風間が目の前にいるというのに、何故かここで一戦を交え先日の仇討をするという選択肢は思い浮かばない。
 手に持つ袋を胸の前まで持ち上げれば微かに漂う甘いカップケーキの香りに、久々にもっとよくその匂いをかいでみたい気がしたのは、きっと気まぐれなのだろう。



(2010.11.25初出→2011.05.29再録//ラメリアのくちづけ
menu