――はじめさん、約束ですよ…?




君の胸に冬眠





 娘の出産を無事に終えてしばらくは、世話をするからと留まっていた千鶴が帰宅した。
「もう大丈夫だから父様のところに帰ってあげてってあの子に言われちゃいました」
「そうか…。――おかえり、千鶴」
「ただいま、一さん」

 あの日、降り始めた雪は、根雪にはならずに翌朝の日差しに溶けていた。風は冷たいが、まだ日の当たるところにはぬくもりが残っている。

 千鶴が台所で野菜を洗っていると、一が土間に降りてきた。
「しばらく一さんだけ残して家を離れていたので、今日は一さんのお好きなものをたくさん作りますね!」
「家を離れていたのは致しかたない事情ゆえ、千鶴が気にすることではなかろう」
「いいえ。旦那さまを放っておいて愛想をつかされてしまっては困りますから!……私は、一さんに恥じない妻でありたいんです」
「お前は今でも十分、自慢の嫁だ。愛想を尽かすことなどありえん」
「ありがとうございます。でも、私は一さんと暮らすようになってからずっと、毎日毎日想いは募るばかりなんです。だから…一さんにも、もっともっと想っていただけるように頑張らなきゃって思って。これからずっとふたりで生きていくんですもの」
 そういって穏やかに微笑む千鶴の姿は、初めて出会ったころに比べ、あどけなさはなりを潜め、代わりに嫋やかさや淑やかさが目立つようになった。それでも慎ましく奥床しい恥じらいは昔から変わらず、無意識に手が伸びてしまう。これからずっと。その言葉に正面から答えてやれないことがもどかしく、少しだけ指先が震えた。
「――そのような愛らしいことを言われては困る。俺とて、日ごとお前を想う気持ちは積もる一方なのだからな」
 腕の中に閉じ込めた妻の耳元に口を寄せ、囁くと耳朶をねぶる。かつてそこから口にした血の味はしない。あの頃、酔いしれるように求めた血の香りとは別の、甘やかでかぐわしい千鶴の香りに包まれて溺れてゆく。
 耳朶からゆっくりと頬の輪郭を伝い、瞼に、そしてあたたかな吐息を漏らす口元に、くちづける。
 最初は啄むように唇を食み、少しずつ深く彼女の中を求めた。
「は、じめ…さ…」
 艶めく吐息の合間に聞こえる声が耳を犯す。千鶴のあたたかな肢体からはじんわりと熱が伝わり、凍える身体があたためられていくよう。
 そのまま千鶴を板敷の間に押し倒そうとしたところで、強く腕を突っぱねられた。
「一さん!早く夕餉を作らないとだめです…!!」
 毅然とした声に、しぶしぶと千鶴の身から離れた。

 千鶴と並んで夕餉を準備し、数日ぶりの千鶴の料理に舌鼓を打つ。千鶴が沸かしておいてくれた湯に浸かり、千鶴が敷いておいてくれた布団に坐して妻が戻るのを持った。
「いいお湯でした」
「そうか」
 ほかほかと血色の良い千鶴の腕を引き、その身体を布団に沈めて熱を分け合う。もう後がないかもしれないという予兆にせっつかれるようにして、どこまでも深く求めた。意識を失うようにして眠りに落ちた千鶴を抱きしめ、一もまたゆるゆると意識を手放す。
(あたたかい…)
 夢の中には、生まれたばかりの娘を腕に抱いて幸せですね、と笑ったかつての妻がいた。


 翌朝。
 仕事はないが、習慣でいつもの時間に目覚める。丁度日の出の頃合いだった。
 そっと身を起こすと、千鶴も目を覚ましたようで、名を呼ばれる。
「おはよう、千鶴」
「おはようございます、一さん」
 ふるり、と身を震わせた千鶴が細く窓を開けると、外では、ちらちらと空から白いものが舞い落ちていた。
「雪…?」
「そのようだな」
「一さん、朝餉を摂ったら少し外へ出ませんか?」
「ああ」

 食事の片づけをした千鶴は、一の肩に分厚い綿の入った羽織を掛ける。仕事のない日は、着物に袴姿なのは夫婦となってから変わらぬ習慣だった。一が掛けられた羽織の袖に手を通すと、さらに行李の奥から、一が昔愛用していた襟巻も出してきて首元に巻きつける。
「雪が降って寒いですから、できるだけあたたかくなさってくださいね」
「千鶴もな」
「はい!」
 しっかりと防寒の装いをすると、千鶴は一の手を取って外へ出た。

 ちらちらと舞い落ちる雪は夜半から降っていたのか、既に地面は白い。
 地面に屈んだ千鶴は、雪をかき集めるとあっという間に小さな雪うさぎを作りあげた。
「ほら、一さん。覚えてますか?」
「無論覚えている。お前に教えてもらったのだったな…」
「あの時から今まで、長かったとも思うんですけど、すごく短くも感じるんです」
 完成した雪うさぎを、屋根のある戸口の脇に置いて一を見上げた。妻の髪を梳くように撫でる。
「たとえ跡形もなく雪が溶けてしまっても、私の心にはずっとずっと残ってます。だから――大丈夫、ですよ?」
「…ちづ…る?」
「一さんは私にたくさんの大切なものをくださいました。あの子だって、私たちの孫だって、みんな宝物です。私に家族をくださったんです。父様も薫も、みんな喪ってしまった私にかけがえのない繋がりをくださったのは一さんなんです。もう、私はひとりじゃない」
「っ、」
 潤む瞳で見上げてくる千鶴が、隠してきた一の変化に気づいているのだと、心配するなと精一杯に微笑むから、一は堪えきれなくなって千鶴を掻き抱いた。
「すま、ない…千鶴、」
「私はたくさん幸せをいただきました。ありがとうございます、一さん」
「俺の方こそ、千鶴にはどんなに感謝してもしきれぬほど多くのものを与えてもらった。…ありがとう、」
 雪うさぎを作っていたはずの千鶴よりもさらに冷たい掌が頬に触れる。

「…一さん、寒くないですか?」
 千鶴は一の手に自分のそれを重ねてあたためるように問う。
「ああ」

「一さん、長い冬が終わったら、また一緒に桜を見ましょうね」
「ああ」
「…約束、ですよ……?」

 千鶴の目の前が、一の髪が、真白に染まる。まるで無垢な六花のように。雪うさぎのように。
 緋色の瞳が一瞬だけ苦悶の色を浮かべると、かすれる声が最愛の者の名を紡いだ。

「っ、はじめさん…!!!」

 刹那、千鶴の腕は空(くう)を抱き、その胸には雪に紛うばかりの真白の灰。
「、は…じめさん…」

 ――お疲れさまです。
 ――寒い冬は、眠っている間に終わりますからね。また、桜が咲いたら…一緒、に、

 世界を侵食する白。墨染めの衣を手に啼泣(ていきゅう)する女のかなしみさえも吸い込んで大地は雪に覆われる。



(2010.09.28//レテの涙
大正4年9月28日斎藤一逝去
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