※お別れの話です。苦手な方注意。ふたりには娘がいる設定。




 斗南の短い夏が終わり、秋がやってきた。
 そして秋が終われば、何度目かもわからぬ冬がやってくる。
 長い長い、冬が。




さよならの産声





 どんなに寒くても薄着で職場へ向かう一に、千鶴が心配して上着を着るように言う。そしてそれに対して「大丈夫だ」と返して寒空のもと職場へ向かっていく夫の背中を祈るような思いで送り出す。それが、去年までの冬におけるふたりのやり取りの常だった。
 しかし、今年は例年と様子が異なることに千鶴は首を傾げる。
「一さん、いってらっしゃいませ」
「…ああ、行ってくる」
 時は初冬。時折吹く風は、まだ切るほどの怜悧さをはらんではいない。
 しかし、千鶴の見送る背中は、既に黒い外套をしっかりと着込んでいた。

 千鶴が一と祝言を上げてから長い長い歳月が流れた。
 その間に娘が生まれ、その娘も生い立って嫁に行った。
 一を送り出してしまえば、家に一人きりの千鶴はふと過去を思い起こす。


 ふたりの始まりはたくさんの家族だった。正確には家族ではないが、千鶴は家族のように思っていた。父のように、そして兄のように、新選組の仲間たちは千鶴と共に時を重ね、やがて荒れ狂う時代の波に翻弄されてひとり、またひとりと袂を分かち、またはその命を散らせていった。
 会津で永倉たちと別れてから、斗南ではしばらくの間、一とふたりきりの生活が続いた。
 そして明治3年10月。ついにふたりの関係に名前がつき、夫婦としての生活が始まる。
 翌年の冬には娘を授かった。ふたりだけの静かな生活に、元気な赤子の声が加わる。
 初めての子育てにふたりで奔走した日々。「父親」の顔になっていった一。
 娘は父親に似る、といわれているように、ふたりの娘も一に似た容貌だったが、性格は物静かながらも千鶴の人当り柔らかな部分を引きつぎ、そのことに一が安堵の吐息を漏らしたこともある。まさに、子はふたりの想いの結晶だった。確かに一と千鶴の血を引いていることは誰の目にも明らかで、それはとりもなおさず、ふたりがこの時代に生きたことの証でもあった。

 深い深い雪に閉ざされた冬の斗南で生まれた娘は、十七の春、その良人(おっと)のもとへ嫁いでいった。どこか娘の父に似た雰囲気の男は物静かで、しかしまっすぐな瞳をしていた。
 愛娘を嫁にやることに頑として頷かなかった一のもとへ、男は雪をものともせずに通い続けた。
『父様はどうして認めてくれないんですか…!?』
 初めて父に恨み言を吐く娘に、千鶴はそっと寄り添った。
『これは父様の最初で最後のわがままなの。だから、あなたももう少しだけ付き合ってあげてちょうだい?』
 雪の中、婚姻の許可を求めて通ってくる男に熱い茶を振舞って、千鶴はただ男たちの言葉少なくも熱い応酬を見守り続けた。

 そうして、長い長い冬が終わり、雪が溶ける春。最北の地・斗南に短い春がやってくると同時に、ついに一が頭を縦に振った。
『――娘さんのことは、僕が必ずしあわせにしてみせます。…義父上』
『…よろしく、頼む』

 あの瞬間の娘の笑顔は、生まれて以来ずっと共にあった千鶴が見たなかで一番輝いていた。
 一もそんな娘の姿を、どこかまぶゆげに目を細めて見守っている。
 娘の良人となる男を見る目もあたたかかった。
『しあわせになりなさいね』
 初めて男に引き合わされた日から、少しずつ縫い続けていた白無垢を娘に渡す。震える手が、うつくしく生い立った娘の手がそれを受け取る。
『っ、母様、ありがとう…!!』
 感情の昂ぶりに目を潤ませ、壊れものを扱うように白無垢をそっと腕に抱く娘の頬を両手で挟むと、しっかりとその深い藍の瞳を見る。
『しあわせになりにいくのでしょう?なら、笑ってないとだめじゃない』
『――はい…っ!!』
 濡れ縁から差し込む春の日差しに、きらきらと輝く瞳で笑った。


 早かった、と千鶴は思う。
 家族のような新選組で暮らした賑やかな日々。一との静かで穏やかな、ふたりで過ごした日々。娘と三人で和やかに過ぎていった日々。どれも大切で、かけがえのない毎日。それらを胸に抱いて、再びやってきたふたりの穏やかな時間。
 不器用なやさしさでいつだって包み込んでくれる夫との生活は満たされていた。
『一さん、もうすぐあの子の赤ちゃんが産まれるそうですよ』
『…俺たちの、孫…なのだな』
『そうです。もう私たちはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんになっちゃうんですよ?びっくりしますよね』
『……そうだな。まさか、俺に孫ができる日が来るなんて…昔は思いもしなかった』
 戦いに生き、戦いに死ぬと思っていた一には到底思い描くことのできなかった未来がここにはあった。一と千鶴が生きた証が、脈々と未来へ繋がっていく。
 先日、夫と交わしたやり取りを思い出した千鶴は、未来を一緒に見ていくために、とうとう一も自分の身体を気遣うことを覚えてくれたのだろうか、と今朝見送った背中を思ってくすりと笑みを漏らした。

 
 小春日和の日差しのもと、千鶴が繕いものをしていると、戸口の方から声がかかった。
「はい、どちらさまでしょうか?」
 戸を開ければ、飛脚が手紙を差し出してくる。礼を述べて受け取り、さっそく中身を改めれば娘からで、そろそろ出産が迫ってきたとの報せだった。
 一の帰宅を待ち、出産の手伝いに行きたいと告げ、明日の仕事を終えたらすぐに自分も行くという一の言に頷き、支度しておいた荷物を持って娘のもとへ向かった。

 そして翌日の夜。前日に比べて急激に冷え込む中、風花が舞い始める。一が厚い外套を着こんで娘の暮らす家に着くと、丁度奥から元気な産声が聞こえてきたところだった。
(無事、産まれたか…)
 千鶴と出逢ったのは、風花の舞う夜の京だった。
 娘が生まれたのも寒い寒い冬の日のことだった。
 そしてまた、冬の始まるこの日、新たな命が生まれたのだ。

 一はぶるりと身を震わせる。
 妙に身体が冷えていた。もとより体温は高い方ではないが、去年までなら千鶴が心配してくれるのが嬉しくて薄着をしても耐えられていた。それが、できなくなった。どうしようもなく冷える。ゆるゆると自分の身体から力が失われていくのを感じていた。変若水の効果は、陸奥の清浄な水が薄め、今や羅刹となることも、吸血衝動を催すこともない。しかし、既に戊辰戦争の戦乱の中で、幾度となく羅刹として命を削ってきたゆえに、もはや限界が近づいているのだろうと静かに思う。

『最初に落ちてくる一粒を、お前と一緒に見たかった』
 かつて、斗南に来て間もない頃、千鶴と見た空から落ちてくる雪。

『変わらないものをこそ、信じている』
 御陵衛士として離隊するとき、雪に見紛うような桜吹雪が舞っていた。

 たくさんの思い出の中、そのいずれをとっても彼女の姿がある。迫りくる別れのときを恐ろしいとは思うが、過去の己の選択を悔いてはいない。変若水を飲んだからこそ、今まで生き延びることができた、その事実は変わらない。あとは、尊敬する近藤や土方のように、潔く消えていくだけ。
 己亡き後の千鶴がひとりではないことが、救いだ。

 産声の聞こえた家屋に入っていくと、そこには赤子を抱く愛娘とふたりを抱き寄せる良人、そして彼らを見守る千鶴と産婆の姿があった。元気に泣きじゃくる子どもを見ると、千鶴が「元気な男の子ですよ」と教えてくれた。

 寒い。
 身体の芯が冷たく凍えている。
 でも、あたたかな家族の姿に、胸の奥にぽっと灯がともる。

 ――あともう少しだけ、ともに。

 千鶴の手をぎゅっと握りしめた。



(2010.09.27//47.
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