<参>

 別れ際に千鶴から渡された金平糖は、惜しい気がしながらもひとつひとつと食べているうちにすぐになくなった。短くて長い一年が流れた。そうして再び、宵の山に鈴虫がなく季節が巡り来て、一はいつものように山の中をあてどなくさまよっていた。

「はじめさん、いますかー?」
 遠く耳に入った声は、記憶に残るものだとすぐにわかる。
 鳥居から伸びた階段を上りきった小さな広場に足を向ければ、やはり想像した通りの人影があった。臙脂色の線が大きな襟の形に沿って入った服は真新しい白。腰からは紺色のブリーツスカートがすらりと膝丈まで伸びている。
「あ、はじめさん!こんにちは!」
 嬉しそうに駆け寄ってきた千鶴は、きちんと50センチ程手前で立ち止まる。
 かけられた声に返事もせず、珍しい姿を上から下までじっと眺めていると、
「中学校の制服、セーラー服なんです。着てきちゃいました!」
 照れたように笑う。
「……随分と雰囲気が変わるものだな…」
「そうですか?」
「ああ」
「それなら、少しは大人に近づけたでしょうか…」
「千鶴は早く大人になりたいのか」
「……わからないです。なりたいといえばなりたいし、なりたくないといえばまだまだ子どもでいたいような気もします…」
 その素直さは一年前とまったく変わらないもので、思わず口端が上がる。とはいえ、やはり面をつけているため、千鶴はそんな一の様子には気づかないまま空を見上げる。
「今年の夏も暑いですね。でも――ここが少し涼しいのは変わらないな」
 呟く千鶴に頷くと、声をかけた。
「その服を汚してはまずいだろう。社に行って座るといい」
「あ、はい!」
 そして、一年前と同じように社殿の階に並んで腰をおろすと、この一年の出来事を千鶴が語り、一は静かに耳を傾けた。

 翌日は、一年前に見た花畑で花を摘み、さらに次の日は滝を見に行った。高い落差から落ちる水飛沫は崖の上にあっても水滴が飛んできそうな勢いで、千鶴は目をみはる。
「はじめさん、ここは去年来てませんよね?」
「――ああ、そうだったな。ここの滝壺は深いゆえ、あんたが落ちてはいけないと思った」
「心配してくれたんですね、ありがとうございます!こんなに近くで滝を見たのは初めてです」
「…ここの滝は、夜になると時折、月の光で虹がかかることがある」
「月の光で…」
「月虹と呼ばれ、珍しいものらしい」
「はじめさんは見たことがあるんですか?」
「ああ」
 長く山に生きて、並大抵のことでは心を動かされない一でも、初めてあの闇夜に架かった虹を見たときは目を奪われたものだ。
 些細なことに心を動かし、喜びを見出す千鶴であれば、きっと自分の何倍も感動するのだろうと思う。
「…いつか、あんたがもっと成長したら満月の夜、ここに来てみるといい。運が良ければ見られるだろう」
「……そのときは、はじめさんも一緒に来てくれますか?」
 少しの躊躇いのあと、口にする千鶴に一ははっきりと頷いて見せる。すると、きらきらと光る飛沫のようにまばゆい笑みが返ってきた。
「じゃあ、約束ですよ!」
 差し出された手に、一が首をかしげると、「ゆびきりです。一さんも手を出してください」と言われて左手を出した。千鶴はそれを見て、右手を引っ込めると自分も左手を出し、小指を絡ませようとしたところで、はっと気づいて身体ごと後ろへ飛び退る。
「っ、ごめんなさい!!つい、いつもの癖で…!」
 しきりに謝る千鶴に、一は今一つ要領を得ない。
「千鶴、ゆびきりとは何なのだ?」
「えっと、約束をするときのおまじない…みたいなものです。小指同士を絡ませて、『指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます』って約束を破らないように誓うんです。…本当にごめんなさい。私がはじめさんに触ったら消えちゃう、のに…」
「…いや、俺も気づかずに手を出したのは浅慮だった。千鶴だけの責任ではない」
 それでも、千鶴は肩を落として俯いたまま、顔を上げようとしない。一はどうしたものかと周りを見て、落ちていた小枝を拾った。
「千鶴。指が無理なら、この枝でしてはどうだ」
 掌よりも短いくらいの小枝を2本。千鶴に歩み寄った一は手にあるうちの1本を千鶴に差し出す。
 すると、千鶴はそっと指先でつまむように枝を受け取った。その仕草が、一年前、おそるおそる一の差し出す襟巻に手を伸ばしたときのものと重なって、知れず一は目元を緩めて彼女を見る。千鶴が抱いているのは、一への恐怖ではない。むしろ、たやすく一を消してしまえる自分という存在への恐怖だ。千鶴の掌はこんなにも小さく柔らかそうなのに、一にとってはそれが凶器だなんて、笑ってしまいそうな話なのに疑おうとしない千鶴。
(あんたの手は、あたたかいのだろうな)
 面越しに見える手が木の枝の端を持つと、一も同様に枝を持った。枝同士の先を交わらせると、千鶴が歌うように指切りげんまんを奏でる。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーらはーりせーんぼんのーます」
 「ゆびきった」という言葉と同時に枝が弾かれるようにして離れる。
「これで終わりです。はじめさん、嘘ついたら針を千本、ですよ?忘れないでくださいね!」
 笑みを取り戻した千鶴に、「承知した」と告げると、傾きだした太陽に導かれるように山のふもとまで彼女を送り届けた。



<肆>
 時を重ね、千鶴は高校に進学した。その年の盆も、例に違わず祖父の家を訪れた千鶴は、墓参りを済ませると一息つく間も惜しむように山へと足を運んだ。
「はじめさん!」
 階段の上、よく見知った姿に向かって声をかける。
「千鶴か」
「はい!今年は高校生になりました!ブレザーなんですよ?」
 階段を上りきったところで、チェック模様の入ったブリーツスカートの裾を手でつまんでくるりと回ってみせる。
「また一歩、大人に近づきました!」
 千鶴は、相変わらず面を被り、黒い着流しをまとう一を見た。この四年ほどで随分身長が伸びた千鶴は、昔ほど一を見上げていないことに気づく。既に大人の一はもう身長が伸びることはないから自然なことなのだろうが、“人間”ではないという彼の時間は進んでいるのだろうか。
「――はじめさん、そのお面ってやっぱり被っていないとだめなんですか?」
 千鶴が持ってきたものを食べるときしか面を外そうとしない一に、おそるおそる尋ねれば、彼は黙り込んでしまう。
「あ、あの、無理に取ってほしいわけじゃないんです。ごめんなさい」
 居た堪れなくなった千鶴がいうと、一はゆっくりとした動作で面を外した。
「いや、これは…自分が“人間”ではないことを忘れぬよう、戒めのようなものだったのだが…あんたといる間くらいは外すことにしよう」
 穏やかな微笑をたたえる一に、千鶴は言葉を失った。初めて会ったときから変わらない姿。でも、あの頃よりもずっと穏やかな色をたたえる瞳に見惚れた。
「え、と…そ、そうだ、今日も金平糖を持ってきたんです。一緒に食べましょう?」
 いうなり、一から視線をそらすようにして甘い菓子を口に含んだ。
 千鶴が手に持つ懐紙に手を伸ばしながら、「千鶴は本当にこの菓子が好きなのだな」と呟くのが聞こえる。
「祖父の家って、あまりお菓子がないんです。いつもあるのは、おかきや金平糖くらいで」
 答えながらも、千鶴は家に帰ってクッキーやケーキがあっても、ついつい金平糖に手を出すようになった自分を振り返る。
 今となっては、千鶴と一をつなぐ品になっていた。夏のたった一週間を共に過ごすだけの関係。それなのに、いつの間にか夏が待ち遠しくて待ち遠しくて堪らなくなっていた。いつも話すのはほとんど千鶴で、一のことはいまだによくは知らない。知らなくても、一のことを考えるだけで胸の奥が温かくなったり締め付けられたりする。まだこの感情には名をつけていない。それでも、とてもとても大切な――。

「立っていては落ち着かんだろう。社へ行こう」
 一粒だけ金平糖を口に含んだ一が踵を返すと、千鶴はその背に続いた。襟巻を握って、まっすぐに伸びた遠い背中を追った日のことが思い返される。身長が伸びて縮んだ距離の分だけ近くなったけれど、慎重に間をあけて歩みを進める。誤って指切りをしそうになった日から、千鶴はできるだけ距離をおいて接することを自分に課していた。たった一度の過ちも赦されない。この時間を失わないためなら、それくらい当然のことだと信じていた。

 社につくと、慣れたように階に腰を下ろす。ふたりの間に金平糖の包みを広げると、「この一年はどうだったのだ?」と一が千鶴を促す。問われるままに、千鶴が語れば、一は静かに聞いてくれた。
「そういえば、うちの家に猫がきたんです!ここに来る猫さんに似て、すごくかわいいんです!」
 子猫が巻き起こすちょっとした事件を身振り手振りを交えながら話していると、一は目元を緩め、ひどくあたたかな眼差しで千鶴を見ていることに気づいた。これまでは面のせいで気づかなかったが、いつもこんな見守るような目で見られていたのだろうか、と千鶴は恥ずかしくなって視線を落とす。
「…どうかしたか」
「えっと…、そういえば、いつも私が話してばかりだなぁって思って。――はじめさんのお話も聞きたいです」

 しばしの間、横手に流れる小川に視線を放っていた一は、ゆっくりと千鶴に向き直るとまっすぐにその目を見つめながら口を開いた。

「千鶴も知っているように、今の俺は“人間”ではないが、かつて“人間”だった頃があった――」
 千鶴が息をのむ音が聞こえた。しかし、かまわず語り続ける。
「“人間”だった俺は、はるか昔、この近くに住んでいた。そして、千鶴と同様、鳥居から階段を上った場所が好きで、暇があればこの山に一人で来ていた。当時、この山には神の山との信仰があり、深く踏み入ってはならないとされていたが、ある日俺はあの青い燐光を放つ蝶の群れを見つけ、その姿を無意識に追って山深くに分け入ってしまった。辿り着いた先は、人の決して踏み込んではならなぬ神の領域だった。そうと知らずに迷い込んだ俺は、“人間”の世界で生きる身体を失い、“人間”と触れ合えば、この身が消滅する呪いを受けた」
 一は、目を閉じて当時のことを思い返す。
 この世ならぬ蝶たちの行き先は、ずっと山の深奥にある森。森に生える木々にはおびただしい数の蝶がとまり、「蝶の樹」とでも表現するのが正しいような光景だった。森全体が青い燐光を発して闇に青白く光が拡散している様は、まさにこの世のものではなかったのだ。“人間”が見てはならない世界。そこに偶然踏み込んでしまった自分。
 一の言に警戒するように、距離をおいて舞っていた蝶たちがふたりを囲むように飛び回る。 「……青い蝶を追って…。それだと、私も一歩間違えば、はじめさんと同じことになっていたかもしれないです…」
「あんたもあの蝶を追って社まで来たのだったか」
「はい。途中で見失ったので、あのお社には川の音を辿って着いたんですけど…」
「――あんたは決して“こちら側”の世界に踏み込んではならん。生きている限り、己に知ることの許された領分を越えてはならぬということだ。……俺とも、深く関わりすぎるのは得策ではない」
「っ、でも、私ははじめさんと離れている間もずっと夏が待ち遠しくて、できることなら夏だけじゃなくて、春も秋も冬も、ずっとここで…この山で、はじめさんと一緒にいたいって思ったんです…!山の秘密が知りたいなんて思いません。ただ、はじめさんと一緒に…!!」
「ずっと共にいれば、いずれ知ってはならないことを知り、過ちが起きぬとも限らん。――もう、ここへは来るな」
「、そんな…!!嫌ですっ私ははじめさんと…!!」
「俺たちは相容れぬ存在だということだ」
 千鶴の瞳が傷ついたように揺れる。今にも溢れそうな涙をたたえる琥珀の目に一の胸の奥がずきりと痛んだが、気づかぬふりをして背を向けた。
(あんたのためだ、千鶴――)

 社に戻った一のもとへふらりと現れた化け猫は、黙って一の膝に飛び乗ると、ニャーと化け猫らしからぬ鳴き声を残して体を横たえた。漏れ落ちる月光がどこまでも冷たい夜だった。



<伍>

 翌年も、さらに次の年の夏も、千鶴が一の前に現れることはなかった。変化の乏しい山での生活は、千鶴に出会うまでと同じように続いていく。
(もう、二度と会うこともないのだろうな…)
 自然と足が向いてしまう鳥居に続く階段の上、一は空を仰いだ。空には満月が浮かんでいる。いつの間にか夜を迎えていたらしい。のろのろと社へ戻ろうとした一の背後で小さな足音がする。こんな夜更けにいったい誰が――。

「――はじめ、さん」
「っ、ち…づる…!?」
「お久しぶり、です。今年、ついに大学生になったんです。この近くの大学に進学して独り暮らしを始めました。……もう、日暮れとともに帰らないと怒られるような子どもじゃないです。だから…約束を果たしてもらいに来ました」
 二年ほど会っていないだけだというのに、その間に、見違えるほどうつくしく生い立った千鶴を前に、一は言葉を失っていた。ここへ来るな、と冷たく突き放したはずの彼女が目の前にいる。

「やく…そく…」
「覚えてますか…?6年前の約束です」
「――ああ、」
 月虹を共に見る。忘れてなどいない。千鶴が去ってから、何度となく独りで夜の滝を眺めた。約束を破れば針を千本飲むという誓いも確かに覚えている。
「知っていますか?今日は満月。空は曇りひとつない快晴。そして、夜の山に広がる深い闇。――私が月虹を見るための条件はほぼ完璧です」
「ほぼ…とは」
「あとは、一緒に見てくださるひとが必要なんです――はじめさん」
 千鶴は、淡い青紫のスカーフを首元から取り去ると、そっと一に向かって差し出した。
「いくらはじめさんの蝶が光源になってもやっぱり暗いです。離れてしまわないように、このスカーフの端を持って私を滝まで連れて行ってください」
 言葉では強気を装いながらも、拒まれるのではないかという不安をにじませる瞳をじっと見つめ返す。揺れることなく見返してくる瞳の強さにようやく観念して、スカーフの端に手を伸ばした。

 夜でも変わらぬ水量で地へ落ちていく滝の音が聞こえてくる。言葉を交わすことなく歩き続け、夜闇にふたりの息遣いが響く。

「――着いた」
 面を外し振り返った一の言に、不安定な足元に目を向けていた千鶴が顔を上げる。舞い散る白い飛沫。大きく丸い月から落ちる静寂の光。
 ――そこには、淡い色をまとった光の橋が架かっていた。
「…きれ…い…」
 持っていたスカーフを手から離したことにも気づかぬまま、千鶴は誘われるように滝へと足を進める。恍惚とした千鶴の様子に、一が危機感を抱いたのは彼女が崖の縁のごく間際までふらふらと足を進めたころ。
「千鶴!?止まれ!落ちるぞ…!!」
 一が声を荒げるも、千鶴の耳には届いていないのか、その足は止まらない。
 やむなく服の裾を引いて強制的に引き留めようとしたそのとき。
 一が動くよりも一歩早く千鶴がからっぽの地面に足を踏み出した。
「……え…?」
 そこでようやく異変に気づいた千鶴が見開いた目で一を振り返る。
「はじめ…さん……?」
「千鶴――っ!!」

 ――“人間に触れてはならない”
 ――…万が一ということもあるからね。気をつけなさいよ。

 すべてを忘れて、夢中で伸ばした手が、あたたかな手を捉えた。途端に、無数の蝶の群れが千鶴と一を阻むように舞い寄ってくる。
『触れたな』
『おまえは“人間”に触れてしまった』
 ささやくような声が折り重なるように響くが、一は気にせず千鶴を地上に引き上げる。
 我に返った千鶴は今にも泣きだしそうに一を見上げた。
「はじめさん!私のせいで…!!」
「――千鶴のせいではない。俺があんたを助けたかったから助けただけだ。……千鶴の手は、あたたかいな」
 存在感が薄れゆく腕で、千鶴を引き寄せ掻き抱く。蝶の光がまばゆいが、それ以上に千鶴のぬくもりに眩暈がするようだった。
「千鶴に出会えて、俺は幸せだった――」
 ささやくように告げると、触れるだけの口づけを交わす。
 長くて短い口づけの後、開いた瞼の向こう、どんな空よりも海よりも澄んだ藍色が千鶴を見つめている。
「っ、私も!私も、ずっとはじめさんと過ごす時間が大好きでした…!!」
「――ありがとう、千鶴」
 これまで見たなかでいちばんやさしい微笑みを浮かべた一が千鶴の頬にそっと触れる。既に感触はなかった。無数の蝶が舞う中彼の姿が空気に溶け、代わりに、新たに真っ青な蝶がひらひらと形をとって、千鶴の周りをぐるりと舞うと滝の向こうの空へと消えていった。


『ハジメはいってしまったんだね』
 泣き崩れる千鶴のもとへ、音もなく現れた化け猫は、目を細めて遠い空を見つめる。
『あんたに触れたいと思い続けて、それがやっと叶ったんだ。ハジメは喜んでいるはずよ。――ありがとうね、チヅル』

 焦がれるほどに待ち続けた夏が終わる。千鶴の手に白狐の面だけを遺して。



(2010.09.07//君に、
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