※緑川ゆき『蛍火の杜へ』パロな和風ファンタジー。哀しいお話が苦手な方は注意。




<壱>

 そのひとに初めて出会ったのは12歳の夏だった。
 祖父の家に盆の里帰りをしていた千鶴は、墓参りのあと始まった大人同士の会話に加わることもできず、かといって一緒に遊べる同年代の親戚もいなかったため、「ちょっと外で遊んでくる」とだけ父に告げるとまだまだ強い日差しのもと、外へ飛び出していったのだった。
 その年の夏の暑さは厳しかった。しかし、木陰に入れば思いの外涼しいことを知っている千鶴は、誘われるように山の中へと分け入っていく。ふもとにある小さな鳥居から続く階段を上っていくと、涼を含んだ空気が心地好い。木漏れ日がやさしく落ちてくるそこは、千鶴のお気に入りの場所だった。階段を上り終えたところで、千鶴の目に入ったのは青い燐光を放つふしぎな蝶。
「きれい…」
 蝶に魅せられ、ふわふわと舞うその後を追って歩き続けると、いつの間にか辺りは木々が生い茂る獣道があるばかり。我に返った千鶴が空を見上げると、太陽は予想以上に西に傾いていたようで、木々の合間からうっすらと茜がかった雲が目に入った。次いで、もう一度辺りを見回すも、既に先ほど追ってきたはずの蝶の姿も見当たらない。
「…どっちから来たんだっけ……」
 途端に、不安が波のように押し寄せてきたが立ち尽くしていても状況は変わらない。耳を澄まして聞こえてきたせせらぎの音をたよりに、前に進むことにした。

 やがて、千鶴の前には細く流れる小川が姿を見せた。小川に寄り添うように小さな社が立っている。左右に建てられているのは阿吽の相をした狐の像。どうやら、稲荷神社のようだった。
「あ…!?」
 社の奥に、見失ったはずの青い蝶を見つける。それも、一羽ではない。
 見ている間にも、たくさんの蝶が青い鱗粉を散らしながら社から舞い出てくる。
 朱色の社と青い蝶。倒錯的な色合いがこの世ならぬ雰囲気を醸し出す。


「――このような場所で子どもが何をしている」
 低く、よく通る声が響いた。びくりと肩を揺らし、声のする社の奥を見ていると、真っ黒な和服を身にまとい、首元には白い布を巻いたひとが現れた。白狐の面をかぶっていて顔は見えないが、声からして大人の男だろうと判じる。かのひとの周りを舞うのは青い蝶の群れ。
「ここはお前のような子どもが独りで来るところではない」
「あの!私…そのきれいな蝶を追いかけていたら、どこから来たのかわからなくなって…」
「…迷ったのか」
 面を被っているせいで表情は見えないが、溜め息をつかれたことがわかって居た堪れなくなる。それでも、ここでまた独りになれば山の中で夜を越さざるを得なくなることは分かっていたので、必死にそのひとに駆け寄る。
 黒い着物の腰元に飛びつこうとしたところで鋭い声が飛んだ。
「止まれ!!」
「っ!?」
 反射的に止まった千鶴と相手との間は約30センチ。
「あんたが帰り道を見失って困っていることはわかった。しかし、俺に触れようとするな。俺はこう見えても“人間”ではない。“人間”と触れ合えば身体が消える。道案内が消えてはあんたも困るだろう」
「人間じゃ、ない…?」
「そうだ」
「そしたら、神さまですか?」
 相手が社から出てきたことを思い出して尋ねる。
「いや、神でもないが…俺のことはいい。あんたは家に帰りたいんだろう?」
「あ、はい!ふもとの鳥居のあるところに戻りたいんです。どう行けばいいかわかりますか?」
「ああ。――着いてこい」
 言うと、そのひとは首元に巻いていた白い布を外し、手に持ったそれを千鶴に差し出してきた。
「はぐれぬよう、この布の端を持て。手を引いてはやれぬゆえ」
「ありがとう、ございます」
 千鶴は差し出された布を恐る恐るつまみ上げた。決して指先が触れてしまわないように。


 改めて周りを見れば、元々彼の周りにいた蝶たちは、いつの間にか少し離れたところで尚も青く鱗粉を散らしてひらひらと舞っていた。光沢を浴びて淡く光を発するその蒼はどこか幻想的だ。
「――あの蝶は、俺が“人間”と触れ合わぬよう監視している」
「……あの、あなたは、どうして人間じゃないんですか?私には人間に見えます」
「――――」
 沈黙した彼に答える意思がないことを悟ると、千鶴は素直に思ったことを口にした。
「あなたがあの蝶々と一緒にお社から出てきたとき、本当にきれいだなって思ったんです。この山の神さまだっていわれたら絶対みんな信じます」
「…あんたは、“人間”ではない俺が恐ろしくはないのか」
 その問いに、千鶴はしばし考えた。
(表情は見えないし、人間でも神さまでもない。誰かもわからないひとと二人きりなのに)
「こわくない、です。だって、こうしてはぐれないように気をつかってくれて、ちゃんとふもとまで連れて行ってくれようとしているあなたが悪いひとなわけないです。それに…」
「それに…?」
「もう山の中は真っ暗なのに、あなたの蝶々のおかげで道もよく見えます。こんなにきれいな景色、はじめて見ました!すごく得をした気分ですっ」
 軽い足取りで、先導していた彼の前に回り込むと、「ありがとうございます!」と満面の笑みで告げ、先に進んでいく。
 そんな千鶴を見た彼は驚いたように一瞬歩みを止め、すぐにピンと布が張って千鶴も止まった。
「あんたが先に行っては意味がないだろう。足元も不安定ゆえ、俺のあとからこい」
「はいっ!!」

 信頼しきった眼差しが背に向けられるのを感じながら前を歩く。
 やがて、遠目に朱色の鳥居が見えてきたところでいったん振り返った。
「もう少しで着く」
「はい!」
 階段を下り、完全に山を抜けるところまで千鶴を連れてくると、彼は足を止めた。
「ここから先の道は分かるのか?」
「あ、もう家はすぐそこなんです。今日は本当にありがとうございました」
 ぺこりとお辞儀をする千鶴に頷くと、そのまま踵を返した。

「あの…!!」
 背中にかかった声に振り返ると「私、雪村千鶴っていいます!…また明日お礼を持ってきてもいいですか?」まっすぐにこちらを見つめる視線があった。
「………好きにするといい」
 どうして拒まなかったのか。自分でもわからないままに答えていた。
「じゃあ、また明日きます!本当にありがとうございました!さようなら!」
 それだけいうと、パタパタと家に向かって駆けていった。その背が見えなくなるのを見届け、自分もまた山に引き返す。

 ――こんなにきれいな景色、はじめて見ました!
 屈託のない声が不思議と耳に残って、これまで感慨もなく見ていた己を囲うように舞っている蝶の群れを眺めた。
(確かに、光源となるのは便利なのやもしれん)



<弐>

 翌日の昼、少女は宣言通りに再び鳥居の前に立っていた。その手には何やら包んだ懐紙が握られている。
 山から下ってきた自分の姿を認めると、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってきた。触れないように、50センチは距離を取ったところできちんと止まる。
「こんにちは!」
「…ああ」
「昨日は、帰りが遅くなって心配したって父さまに怒られちゃいました」
 少しばかり俯いて落ち込んだように言ったかと思うと、次の瞬間には顔を上げている。
「あの、昨日のお社のところに今日も行ってもいいですか…?川もきれいだし、涼しくてすごくすてきなところですよね!」
「あそこが気に入ったのか」
「はい!えーっと、あなたは…「はじめ、だ」
「え」
「俺の名は、一だ。名がある方が呼びやすければ使うといい」
「えっと、そしたら、はじめ…さんは、いつもあのお社にいるんですか?」
「眠るときはあそこだが、起きている間は山の様々な場所をまわっている」
「そしたら、この山ははじめさんのお庭なんですね!広くてきれいで羨ましいです」
 にこにこと笑う千鶴に「…あんたも他の場所を見てみたいのか」と言葉が口をついて出ていた。普段の自分らしからぬことが昨日から続いている。
「できるなら見てみたいです」
「――では、先に山の中をまわってから社に行く」

 それから、たくさん歩いて山の中をふたりで見て回った。千鶴は疲労を訴えることなく、その小さな足でちょこちょこと一の後ろをついて歩き、花畑を見ては歓声を上げ、洞窟に入っては珍しそうに視線を巡らせた。そんな千鶴の様子に面の内側で目元を緩める一は、見知った場所を少しばかり新鮮な気持ちで見る。適度に休憩をはさみながら一通り巡り終えると、昨日の社の前に腰を落ち着けた。
 小川の冷たい水に足をつけた千鶴が「はじめさんもしませんか?」と尋ねてくる。
「いや、俺はいい」
 このときには、他愛のない会話から千鶴の境遇の大まかなところは知ることができていた。
 小学校6年生で普段はずっと遠く離れた都会に住んでいること。毎年夏はお盆の一週間だけ祖父の家があるこの村に滞在すること。ここにいる間、遊べる友人がいなくて独りで山に入ったこと。階段を上りきったところは昔からお気に入りの場所だったこと。

「あ!金平糖持ってきたんだった!」
 靴を履き、立ち上がると手提げ袋に入れていたらしい懐紙の包みを取り出し、中身を広げて見せた。七色の素朴な色をした小さな菓子の山。
「甘くておいしいんです。はじめさんと一緒に食べ…」
 と、そこで不自然に途切れた言葉に首をかしげる。
「あ…、でも、よく考えたら、お面をしたままじゃ食べられませんよね!ごめんなさい。また、私が帰ってから食べてみてください」
 困ったように笑う姿が淋しげに見えた。そんな笑い方よりも、もっといい笑顔を知っている。
「いや。今、共に食べればいい」
 不思議とためらうこともなく面を取っていた。広がった視界で目を見開きこちらを見ている千鶴と初めてまっすぐに視線が合う。
「では、ありがたく頂戴しよう」
 若草色の金平糖を一粒つまみ、口に含む。やさしい甘みが口腔に広がった。
「美味いな。…千鶴は食べないのか?」
「あ、えと、食べます!」
 桃色の粒を口に運ぶと、「おいしいです!」と彼女らしい笑顔で笑った。


 社前の階にふたり並んで腰をおろし、金平糖を食べながら話していると、一の足元に見知った姿がすり寄ってきた。
「――ああ、久しぶりだな」
 尻尾が三つに分かれたトラネコ――いわゆる化け猫なのだが、時折一のもとへやってくる。
『ハジメ、どうしてこどもがここに?』
「わ、猫さんがしゃべった!」
「俺の友人だ。この場所が気に入ったそうだ」
『でも、そのこどもは“人間”でしょう』
「そうだ。だが、触れなければ問題はない。その点についても、千鶴はきちんとわきまえている」
『…万が一ということもあるからね。気をつけなさいよ』
「ああ。ありがとう」
 一の手がその背中を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。
「猫さんははじめさんに触ってもらえるんだ…」
「こいつは化け猫だからな。“人間”とは関係がない」
「じゃあ、私が猫さんに触るのは?」
「それならば問題ない」
「…猫さん、触っても良いですか?」
『……いいわよ』
「ありがとうございます!」
 千鶴がその背中の毛並みをそっと撫でる間、気まぐれな化け猫はおとなしく横たわり続けた。



 日中、山で過ごす日々はあっという間に一週間を数え、盆を終えた千鶴たちが村を去る日が来た。
 ふもとの鳥居まで下りてきた一に、千鶴は名残惜しげに別れを告げる。
「あの…!来年の夏もこっちに来るので、そのときはまた山へ行ってもいいですか?」
「――ああ」
 最後に、また金平糖の包みを手渡すと、何度も振り返りながら千鶴が去っていく。
 鈴虫の声だけが辺りを満たしていた。



(2010.09.04//君に、
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