この小さな箱の持つ意味を問うことに意義はあるのだろうか。




2月 チョコが残した遺言





 センター試験が終わり、3年生のある者は推薦合格を決め、ある者は私立大学の受験に追われ、またある者は国公立大学の二次試験に向けて準備を進めていた。3学期は自由登校になっている3年生だったが、偶然登校日が重なった2月14日。白鴎高校は朝から浮き足立っていた。自由な校風ゆえにバレンタインデーにかこつけた菓子類のやりとりは非公式ながら許されている。友人や想い人へのプレゼントはもちろん、日頃世話になっている教師にチョコレートを送る女子生徒もたくさんいる。

「僕さぁ、前から疑問だったんだけど、靴箱に食べ物を入れるってどういう神経してるんだろうね」
 珍しく時間に余裕を持って登校した沖田は、自分同様、開いた靴箱を前に疲れた表情を見せる斎藤を見やった。
「包装してあれば良いというものでもないと思うのだがな……」
「大体、わざわざあえてこの日を登校日にする学校側も胡散臭いよね。3年からもチョコレートもらいたい教師の下心? オトナって汚ーい」
 そんな沖田の隣で、斎藤は準備してきた紙袋に上靴を埋もれさせてしまっている菓子の山を入れていく。
「それ、一君はどうするの」
「……総司はどうするつもりだ」
「靴箱に入れてある分って大体差出人わかんないし、そんな得体の知れないものいらないしなー」
 ちなみに、去年と一昨年は道場に持って行って、羨ましがる男子生徒たちに山分けさせた。だが毎年同じというのも芸がないし面白くない。どうしたものかと周りを見回した沖田はニンマリと企み顔で笑った。
「一君、良いこと思いついちゃった。君の分ももらっていいかな」
「あ、あぁ。かまわんが……」
「じゃあ、この袋、もらうね!」
 言うなり、沖田は斎藤の手から紙袋をさらうと、自分の分も靴箱から移し入れる。
「一君は先に教室行ってて。僕はちょっと寄るところがあるから!」
 鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌で去っていく沖田の背中を呆然と見ていた斎藤だったが、予鈴の音が鳴ると弾かれたように教室へ向かって早足で歩き始めた。


 ――数時間後。
 3年の登校日とはいっても、受験の進捗状況の報告と卒業に向けたお知らせが終わったあとは、希望者に対して担任と相談するための面談時間が設けられているだけだ。
 面談の希望を出していない斎藤と沖田は、久しぶりに一試合やろうと剣道場に向かっていた。教室でもさんざんチョコレート攻撃を受けた二人は、誰にも邪魔されない場所で精神を集中させたかった。しかし、誰に告げたわけでもないのに、いつの間にか二人のあとを追ってくる複数の気配。
「君たちさぁ、何の用? 僕らはこれから真剣に一試合やりたいの。用があるなら早く済ませてくれない?」
 威嚇するような刺々しい沖田の言葉に怯んだのか、言葉なくもと来た方向へ戻ってゆく女生徒たち。
 それでも去らなかった数名が沖田の前に進み出て、用意していたのだろう包みを順番に差し出してきた。
「これ、受け取ってください!」
「あー、うん。ありがとね」
 沖田がおざなりに可愛らしくラッピングされた袋を受け取っている横で、小さく「あの、斎藤君、」と呼びかける声が聞こえた。
 斎藤が振り返ると、見知ったクラスメイトの女子が所在なさげに斎藤の横に立っている。
「斎藤君、ちょっといいかな」
 返事を待つ間もなく、踵を返して廊下の角を曲がっていってしまう。斎藤が後を追うと、頬を紅潮させて震えそうな声が紡いだ。
「わたし、斎藤君のこと……ずっと……すき、だったの」
「…………、」
「今は受験前の大変な時期だってわかってる。こんなときだけど、でも、もう今年が最後のチャンス、だから。だから、これ……もらってください」
 緊張に血色を失った細い指が、淡いピンクのリボンでラッピングした箱を差し出す。
「――すまない。俺は、あんたの気持ちには応えられない」
 ピクリ。肩が震えた。
「そ……っか。わかった。あり、がと」
 掻き消えそうな語尾を残して、そのまま走り去っていく。それを追うことなく、それでも残る後味の悪い感傷を振り切るように溜息をついた。

「一君、罪な男だねぇ」
「……総司か」
 廊下の角から頭を出して覗いていた沖田がこちらへやってきた。
「知らない仲じゃないんだから、受け取るくらいしてあげれば良かったのに」
「中途半端に期待を持たせるのはむしろ残酷だろう。そういうあんたはどうしたんだ」
「んー。僕は使い道があるからまぁもらっとけばいいかなって」
「使い道とは……。それに、朝持っていった分がないようだが、どこにやった?」
「あぁ、あれ? どこにいったかなぁ〜」
 あらぬ方を見上げて口笛を吹くと、道場の方へ戻っていく。
「総司、茶化すな」
「茶化してないよ。本当に忘れちゃったものは仕方ないでしょ」
 のらりくらりと斎藤の質問を交わすのはいつものことだ。斎藤は諦めて沖田の後を追い、道場に誰もいないのを確かめると、久々に竹刀を振るって全身を動かしたのだった。


「そろそろ1、2年生の授業も終わる頃かな」
 面を外し、タオルで汗を拭っているところへ図ったように道場の扉が開いた。
「総司ぃぃぃ! これはてめぇの仕業かっ」
 見覚えのあるプレゼントの山で膨れた紙袋を手にずんずんと入ってきたのは剣道部の顧問。
「土方先生、そんなに慌ててどうしたんですかぁ?」
「てめぇ、職員室の俺の机にこれを置いていきやがっただろう! 何が『だいすきな土方先生へ愛をこめて 総子(はーと)』だ!!」
「土方先生、僕の名前も忘れちゃったんですかぁ? 若年性痴呆症なんじゃありません? 僕の名前は沖田総司。総子なんて知りませんよ。総子ちゃんの気持ちを疑うなんて、教師のくせにサイテー」
「てんめぇなぁ………………、」
 怒りに打ち震える土方の前に、斎藤が音もなく進み出た。
「土方先生、すいません。何も考えずにこれを総司に渡した俺が浅慮でした」
「……斎藤、これはお前のだったのか」
「申し訳ありません」
「…………どうせ総司のやつが勝手にやったことだろ。お前が謝ることじゃねぇ」
「一君、なに勝手に謝ってるのさ!」
「総司、あんたも土方先生に謝れ!」
 斎藤の手が沖田の頭に伸び、力任せに土方の方へ押し倒す。
「どうもすいませんでしたー」
 棒読みに言うだけ言うと、つまんないなぁ、と愚痴をこぼしながら更衣室へ去ってしまった。
「斎藤、受験勉強の方はどうだ?」
「それなりにやっています」
「まあ、お前のことだから心配はしてねぇけどな。大事な時だ、ちゃんと汗は拭いて風邪ひかねぇようにしろよ?」
「お気遣いありがとうございます」

「あっ、一君じゃん! 久しぶりー!!」
「平助か」
「すっげー汗だけど、今まで誰かとやってた?」
「ああ、総司とな」
「その総司はいないみたいだけど?」
「一足先に着替えに行った」
「なぁなぁ、一君。久しぶりに俺たちと稽古してかねぇ? やっぱり総司や一君とやるのが一番楽しいし! それに千鶴も一君に会いたがってたぜ?」
「雪村が……?」
 自由登校になって以来、まともに会っていないマネージャーのことを思い出した。初詣であった時にもらった誕生日プレゼントのカイロカバーはセンター試験でも使ったし、普段も外に出る日はポケットに忍ばせている。
「とりあえずオレも着替えてくる!」
 言うなり更衣室へ駆け出した平助。
「斎藤、あいつはああ言ってるが、お前はもう帰っていいぞ? 受験が終わってからあいつらの相手してくれりゃあいい。俺も道具を職員室に置いて来ちまったから、もう行くな」
 去っていく土方の背を見送りながら、斎藤はどうしたものかと顎に手を添えた。正直、沖田との打ち合いで体は心地よい疲労感に包まれている。しかし、久々に下級生たちを指導してやるのも悪くない。それに――。
 あの日、斎藤にプレゼントを差し出した冷たく小さな手のひらを思い出す。またあんな風に冷やしてはいないだろうか。暖かくしているだろうか。躓いた彼女を支えた時も羽のように軽くてきちんと食べているのかと心配になった。
(平助はもう、彼女からチョコレートをもらったのだろうか)
 ふと、そんなことが気になった。平助は千鶴のクラスメイトだ。もらっていてもおかしくない。それはもしかしたら、義理なんてものではなく、本命のそれ、なのかもしれない。
(………………)
 無意識に噛み締めた唇から鉄錆の味が口腔に広がった。
「――斎藤先輩?」
 ちょうど考えていた相手の声が聞こえて、幻聴かと頭を振った。しかし、もう一度同じ声が聞こえるに至ってそれが現実だと認識する。
「斎藤先輩、ここにいらっしゃったんですね! 誰かとお稽古されてたんですか?」
「あ、ああ。総司とな」
「そうなんですね。沖田先輩は?」
「着替え中だ」
 先程平助としたのを反芻するような会話だ。
「あれ、先輩。唇が……」
「ああ、これは、さっき噛んでしまったようでな」
 手の甲で拭おうとすると、それを千鶴の手に阻まれた。
 代わりに、ほんのり良い香りのするハンカチがそっと唇をなぞる。
「ちょっと失礼しますね」
 千鶴がポケットから出したリップスティックの底をくるくると回して、先端部を斎藤の唇に塗る。
「冬は乾燥して切れやすくなってますから、気をつけてくださいね」
 にこり。他意なく笑う。その千鶴の唇も艶々と潤っている。
 普段から千鶴の使っているものが斎藤の唇を潤していた。
 ごくり、と生唾を飲み込んでしまう。
 千鶴が気にしていないのに、斎藤が殊更意識することではない。そう自分に言い聞かせていると。
「でも、偶然お会いできて良かったです。今日はこれを先輩にお渡ししたくて」
 本日何度目かの似たようなシチュエーションだ。千鶴が腕にかけていた紙袋から、丁寧に包装された小箱を取り出すさまを呆然と見ていた。
「受け取ってもらえますか……?」
 小首を傾げて箱を差し出してくる後輩。ふと、その手にある紙袋の中身をちらりと流し見た。まだまだたくさんの小袋が入れられているのが見える。きっと、剣道部の部員たちに配るつもりなのだろう。律儀な千鶴らしい。そう思う反面で、心臓を掴まれたような痛みが走った。
 差し出された小箱の持つ意味を問うたなら、彼女はなんと答えるのだろう。尋ねることに意義はあるのだろうか。訊きたい衝動とそれを押しとどめる理性がせめぎ合う。
「…………、すまない。俺は甘いものが苦手だ」
 絞り出した返事はなんとつまらないものだろう。それでも、皆と同じものをもらって、彼女にとってチョコレートを渡した大勢のうちの一人になることが嫌だった。
「そう、だったんですね。知らなくてごめんなさい……!」
「いや、これは俺の嗜好の問題だ。気にしないで欲しい」
 差し出した手を引っ込めた千鶴の視線が、斎藤の足元に置かれたたくさんの菓子の詰まった紙袋に注がれている。そんなことにも気づかぬまま、斎藤は波立つ感情を抑えるように固く目を閉じた。唇からほのかに甘いイチゴの香りがしていた。



ス ク ー ル デ イ ズ



(2013.05.25//カカリア
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