※Scotch Broomのみやさんがつけてくださった【麗しい挿絵】とあわせてお楽しみください^^




 「やさしいひとですね」と彼女は言った。




あえかなる白腕で





 静かに降りだした雨は夜陰に白く筋を引いて落ちてゆく。闇に浮かび上がるのは紅い花。血潮にも似たその色が視界の端をかすめるも、最早それを花と認めることもなかった。
 与えられた任務の遂行。それを成しただけ。降りしきる雨が空気を満たし、肺の奥まで濃厚に錆びた血臭が染み渡る。慣れたはずのそれがやけに絡みつくのは、雨のせいか、それとも――。



 秩序を守るために必要なものは何か。
 それは情などではなく、いかなるときも揺らぐことのない堅牢なる規律であり、無私なる裁定だ。
 それゆえに、斎藤は厳しくも情を持って育ててきた己が隊士の脱走に対し、隊規に従って粛清を加えた。
 斎藤を慕って、幼いながらも厳しい毎日をひたむきに生きていた彼が、母の病を知って、無断で任務を離れた。父を早くに亡くし、母と二人で生きてきたのだと語っていた。ゆえに、その母の病の報にいてもたってもおられぬのも道理といえば道理。しかし、私情を挟むことを許してしまっては、大所帯になった新選組という組織がたちゆかず、引いては敬愛する土方の面目を失いかねない。
 したがって、斎藤はそれまでに何度も手を下してきた案件と同様に、まだ年若い少年隊士を手にかけた。
 身に浴びた返り血が乾かず、洗い流されることもなく、さらさらと降りしきる雨のにおいに混じって斎藤の身を包んでいた。ゆるやかに喉を絞められていくような錯覚の中、監察方が事後処理に動き出したことを察知してようよう身体を屯所に向けた。

 血臭など、今更気にとめるような人間ではない。嗅ぎなれた錆びたにおいに違いないのに、ゆるゆると追い詰められていくような息苦しさを覚えるのは、やさしく鼻腔を満たした薫りの記憶が消えないからか。



 夜陰に紛れて帰還した屯所は、静かだった。草木も眠る丑三つ時。当然といえば当然だ。
 本来であれば、早々に着替えて床に入るべきところ、斎藤は中庭に立って雲の向こうの淡い光源を見上げた。――あの日は、雲ひとつない空に月が明るかった。

「……斎藤、さん…?」
 不意に掛けられた声に、緩慢に振り返る。闇に浮かぶ夜着が白い。
「…………」
 黙っていると、縁側から駆け出てきた千鶴がしっとりと水分を吸った衣に触れた。
「斎藤さん、ずっと外にいらしたんですか!?」
 寄り添うように立った千鶴に促され、彼女の部屋に通された。布団が敷かれ、枕元には行灯の火が揺れている。座布団の上に導かれるままに腰を下ろす。
 橙に揺れる光のもと、返り血を浴びた斎藤を見た千鶴は一瞬だけ動きを止め、しかしすぐに機敏な動作で行李から取り出した手拭いを差し出した。
「まずはお身体を拭いてください。このままでは風邪を引いてしまいます。私は湯殿の支度をしてきますね」
 言い置くと、早速風呂の準備に向かおうとした千鶴だったが、手首をとらえた手によってその場にとどめられる。
「斎藤…さん…?」
 冷たい手。このままではいけないと思うのに、振り払うことができない。すがるように掴まれた手だけが千鶴を求め、斎藤自身は口を開かない。
 仕方なく、湯の準備を後回しにすることにして身を翻し、斎藤に向き合った。ようやく掴まれていた手が離れる。
 受け取ったまま役目を果たしていない手拭いを斎藤の手から取ると、そっと頭に被せて水分を吸いとらせる。
「……お仕事、お疲れさまです。お怪我はないですよね?…よかったです」
 正座する斎藤の前で膝立ちになっている千鶴が手拭いごしに頭に触れている。白い夜着の膝元から視線をあげると、ふわりと微笑む彼女と目が合った。
「…斎藤さんが無事に帰ってきて下さって嬉しいです」
 何かを察して、千鶴は事情を問い質そうとはしない。その心遣いがわかって、握りしめた拳が震えた。
「…………俺は、」
「はい」
「俺は、………………やさしくなど、ない」
「……斎藤さんがどう思われていても、私にとってあなたはやさしいひとです。私の真実は私のものですから」
 そういう彼女の瞳はただただまっすぐで、嘘のない誠実さだけがあった。
 ただ副長の命にだけ従っていれば誤ることはなく、かなしみ迷う心などとうに失ったものと思っていた。しかし。

(俺は、彼女のくれる言葉が欲しくて、待っていたのだろうか――)

 髪の水気を拭い終えた千鶴の着物の袂を握ると、彼女は何もいわずに斎藤を腕の中に包み込んでくれる。
 幼子をあやすように背を叩く規則的な刺激の中、肺に絡まっていた鉄錆の香りがあの日鼻腔を満たしたやさしい香りに代わってゆく。

 やさしいというのは、彼女の白く柔らかな手をこそいうのだろう。



(今一度抱きしめてはくれまいか)



(2010.07.12//風雅
斎藤さんと千鶴ちゃんは無意識の部分でお互いを拠り所にしていたらいいと思います^^
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