雲ひとつない夜空に浮かぶ月を見上げた。 肩に感じる重みを煩わしいと思わないことが、鼻腔を満たす香りを心地よくさえ思う己が、ただただ不思議だった。 「諸君の日頃の働きに免じて、今日は無礼講だ!思う存分楽しんでくれ!」 近藤のことばから始まった宴会は盛り上がりの極みにあった。 夜の巡察組が帰陣した夜半に始まり、浴びるように酒を飲んでは、文字通りの無礼講で歌うもの、踊るもの、くだを巻くもの、酔いつぶれて寝こけるもの。広間はもはや無法地帯と化していた。 幹部達に求められるまま、酒の入った銚子を手に給仕にまわっていた千鶴だったが、段々と場が盛り上がりの極致を越えるにつれて絡み酒の体を見せるものが出てきた。 「千鶴ちゃ〜ん、ここはいっちょ娘姿のひとつふたつ披露してくれよ〜」 「おー!それは良いな!!無礼講だからな。腹芸の次は“女装”だってアリだろ!!」 「え……えぇ!?」 いくら幹部内の宴会とはいえ、屯所内には道場で同様に宴会をしている平隊士たちもいるのだから、安易に男装を解くわけにはいかない。しかし、酔っ払いを相手に正論は無意味だ。千鶴の手首を取って「なぁ、良いだろう?千鶴ちゃん」と絡んでくる永倉にどうしたものかと頭の中でぐるぐる考える。 「な、永倉さん……」 眉尻を下げ、握られた手首と永倉を交互に見ていると、落ち着いた声が割って入った。 「新八、手を離せ。千鶴が困っている」 「斎藤…お前も千鶴ちゃんの娘姿見たいだろー!?」 「――寝言は寝て言え。…ここに新しい酒があるんだが…あんたは要らないのか」 斎藤は左手に持った徳利を視線で示すと、丁度手元の盃が空いていた永倉は「お、要る要る!」と手を伸ばしてきた。永倉の意識がそれたところで、斎藤は千鶴に視線で下がるよう促し、永倉に一杯酌をしてやると、徳利を床に置いて濡れ縁に足を向ける。 喧騒から少し離れた縁側に腰を下ろし、手酌で酒を飲み進めていると、千鶴が新たな銚子を手にやってきた。 「お隣、座ってもいいですか?」 「ああ」 「先程は助けていただいてありがとうございました」 ぐい、と酒をあおり頷く斎藤に、千鶴は持ってきた銚子から酒を注ぐ。 「斎藤さんはみなさんと一緒に飲まなくていいんですか?」 「…ああなってはもはや手が付けられん。離れていた方が賢明だろう。あんたも、先の一件で分かったはずだ」 「そうですね…」 千鶴が苦笑して同意すると、斎藤はちらりと背後で騒ぎ続ける永倉たちに視線を流す。 「新八たちも悪気はないのだ。池田屋以降隊務も増えているゆえ、酒を飲んで気を晴らすことも必要なのだろう。…悪く思わないでやってくれ」 池田屋事件。京に火を放ち、混乱に乗じて天子様を長州へ連れ去ろうとした過激派浪士たちの計画を未然に防ぎ、新選組の名を広めた事件。計画が実行に移されていれば、京は焼け野原になっていたはずで、それを防いだ新選組の働きは感謝されるべきものだ。なのに、京の町の人たちは依然として新選組を「壬生狼」と蔑み、あからさまに避けている。巡察で町を歩くたびに閉ざされていく扉や波のように引いていく人々を見て、こんな不条理なことってあるだろうかと千鶴は歯噛みする思いだった。 「私は悪く思ったりはしません。ただ…」 「今更、京の者に俺たちのことを理解してほしいとは思っていない」 「え…」 内心を見透かしたようなことばに驚く千鶴を見て、斎藤はふっと口角を上げた。 「あんたは考えていることがよく顔に出るな」 「そ、れは…斎藤さんが観察することに長けていらっしゃるからだと思います。永倉さんたちのことだって…」 関心がないように見えて、実は人一倍よく相手のことを見ていて、さりげない気遣いができるひとだ。 「…斎藤さんは、やさしいひとですね」 黙していた斎藤は、思いがけない言葉に目を見開いた。しかし、彼女はそんな斎藤には気づかないまま、視線を外に向けてしまう。何か言おうとしたが、機会を逸した言葉は喉の奥で詰まったまま。 仕方なく、沈黙を守って千鶴の視線の先を追った。 日暮れとともに東の空に姿を見せていた月は既に中天を過ぎ、ゆるやかに光を放っている。 「今日は十五夜の月だったんですね。きれい…」 煌煌と明るい月には曇りひとつなく、その光に照らされた千鶴の横顔がひどく印象に残った。 再び手酌で酒を飲む斎藤に気づくと、千鶴は慌てて自分が酌をするからと銚子を手に取った。 「…あんたはずっと酌ばかりしていて、食べていないのではないか」 「いいえ。ちゃんといただきましたよ。それに、みなさんがたくさん食べたり飲んだりされているのを見ているだけでなんだか胸がいっぱいになってしまって…あまりお腹も空いていなかったので」 「そうか」 黙って盃を空ける斎藤に酌をしようとしたところで、手元の銚子がすべて空になっていることに気づいた。 「あ…、少し待ってもらえますか。新しいお酒をお持ちします」 言って立とうとする千鶴を制し、斎藤は「酒はもういいゆえ、次は茶を頼む。…あんたの分もな」と告げた。 「はいっ!」 酒の飲めない千鶴を気遣っただろうその言葉が嬉しくて、満面の笑みで答えた。 熱い茶を二人分と茶菓子を盆に載せて戻ってくると、千鶴は再び斎藤の隣に腰を下ろした。 「先日井上さんにいただいた紅梅焼があったので持ってきました。よろしければ召し上がってくださいね」 「有難くいただこう」 梅の花をかたどった菓子に手を伸ばし、口に含む。酒ばかり飲んでいた舌にほどよく山椒のきいた煎餅が新鮮だ。 「美味いな」 「よかったです」 千鶴も菓子を口にして茶を啜った。夏の夜風がかすかに頬を撫で、虫の声が耳に涼しい。 しばしの間、ことばもなく茶を飲んでいたふたりだったが、先に沈黙を破ったのは千鶴だった。 「――斎藤さん、は、父をご存じなんですよね」 「…ああ。綱道さんには世話になっていたからな。…個人的な会話を交わしたことはないゆえ、詳しいことは知らぬが…」 千鶴が一向に情報を掴めない父のことで気を揉んでいるのは分かっていた。普段ならばわざわざ話題にしようとはしない彼女があえて綱道のことを口にした。話したいのだろうと千鶴の心中を察した斎藤が水を向けると、千鶴は訥々と過去のことを語り出した。 ごくごく平凡な日常の様々な場面を笑ったり目を伏せたりと豊かな表情で語る彼女をじっと見つめる。そこにいるのは、気丈なふりをしていてもまだまだ拠り所を欲しているうら若い少女だ。表面ではここでの生活に馴染んだように見えても心労は絶えないのだろう。運が悪かったとしかいえない自分たちの邂逅を思い出す。本来ならば、このような血なまぐさい場所とは関係なく平穏な日々を生きられたはずの人間。 (……憐れな娘だ) 話しているうちに、千鶴は眠りの波にさらわれ、今は斎藤の肩口に寄りかかるようにして寝息を立てている。安らかに眠る千鶴はまた、目覚めたときには気丈な娘の姿を取り戻して笑うのだろう。 (憐れだが、しかし…) 「――あんたは、強いな…」 斎藤の呟きは誰の耳にも止まることなく空気に溶ける。 吹き抜ける風が千鶴の髪をさらい、斎藤の鼻腔にその香りを運んだ。空気を吸い込み、肺を満たす彼女の気配に、斎藤はゆるゆると瞼を落としてゆく。 まもなく、東の空に黄金の光が満ち、新たな一日が始まる――。 (2010.07.11) |