慶応四年、秋。 仙台へ向かう土方らと袂を分かった斎藤と千鶴は会津へ向かう道中にあった。 敵の目を欺くため、そして羅刹となった斎藤の負担を減らすため、ふたりは夜陰にまぎれて山中を進む。飛び出している小枝に引っかかる程度ではもう痛みも感じないくらいに、木々の間を縫うことに慣れてしまった千鶴だったが、それでも斎藤は少しでも千鶴が歩を進めやすいようにと前を歩いて道を踏みならし、目につく小枝を折る気遣いを忘れない。 ずっとずっと、その闇に紛れる背中を追い続けてどれくらい経っただろうか。 いつも日差しがきつくなる頃合いになると振り返って「そろそろ休むか」と声をかけられ、ようやく肩を並べられることにほっとするのが千鶴の今の日常だ。 しかし。 進むことをやめた背中に追いつくけれど、まだ闇は深い。 「斎藤さん?」 おそるおそる覗き込んだ先には、いつもの澄んだ藍ではなく、燃え盛る炎の緋色があった。 噛みしめた唇の間から、苦しげな息が漏れる。 色素を失っていく長い前髪の間から、縋るような、それでいて拒むような、複雑な視線が千鶴を貫く。 「斎藤さん、血を」 もはや躊躇うこともなく着物の襟元を緩め、その身を差し出す。 斎藤に己の血を与えるこの瞬間。千鶴は心のどこかでこのときを待ち望んでいる自分に気づかないよう、ただただ懸命にその白い首筋を晒す。この瞬間だけは、どんなに背中を追うことしかできない自分にも斎藤のためにできることがあるという陶酔にも似た感情に蓋をして。 「斎藤さん……?」 近頃は千鶴の献身を拒むことをしなくなった斎藤だったが、今日は反応がない。仰ぎ見れば、千鶴の肩を掴んだ腕は拒むようにピンとはりつめ、顔も千鶴を避けるように背けられている。 「斎藤さん、早く血を飲んでください! でないと発作が治まりません!!」 「っ、いい」 苦しい息の間から、吐息に紛れるように拒絶の言葉。 「良くないですっ」 (私が唯一、斎藤さんのためにできることさえ失われてしまう) しかし、小太刀に伸ばそうとした手は斎藤に押さえられて身動きが取れない。 「どうして……っ」 涙に滲んでゆく視界をとどめる術は見つけられず、ただ唇を噛みしめた。 こんなしたたかな自分だから、この清廉なひとに受け入れてもらえないのだろうか。 「どうして……っ」 緋色に染まった視界で、発作をこらえる自分よりも悲痛な声が目と鼻の先で絞り出される。 ――どうして。 彼女の問いに対する答えは、きっと既に自分の中にある。 自身を顧みることなく、己が身を捧げる千鶴を前に何も感じない斎藤ではない。 土方ではなく斎藤を選んだ千鶴。懸命に斎藤の発作を治めようとする千鶴。迷いなく斎藤の後ろをついてくる千鶴。 ふたりだけで過ごす昼夜をいくつ数えただろうか。 野宿の寒さをしのぐため、いつも体温を分け合うようにして眠ることが日常になっていた。 けれど、斎藤はもうそれだけで満足することができないのだ。 芳醇な血を飲むだけ、傍で眠るだけ、視線を合わせるだけ。 その数が増えていくたびに、斎藤の中の衝動が溢れだしそうになる。 (身も心も、千鶴を俺のものにしたい) 千鶴を大切に想っているはずなのに、それだけではとどまらないあさましい欲望。 自分を信じてここまでついて来てくれた千鶴のためにも、決して裏切るようなことはできない。 衝動を鎮めようと目を閉じても、手に取るように千鶴の姿形が瞼の裏に映る。 鋭くなった感覚が、千鶴の血の香りを察知した。 また、自分のために彼女が傷ついてしまった。 「そんなに」 「え……?」 「そんなに、唇を噛むな」 小太刀へと伸びた千鶴の手を押さえる腕の力を抜き、手袋を取るとその唇に指を這わせた。 赤い血が滲む唇を慈しむようになぞり、そのまま自分の口元へ指を運ぶ。 僅かばかりの彼女の血は、それでも砂漠に降る慈雨のごとき甘さで斎藤の舌をとろけさせた。 赤味の引いていく視界で、涙を浮かべた千鶴を抱き寄せ、その耳元に囁く。 「すまない、もう大丈夫だ」 千鶴のからだは、涙でさえも甘いのだろうか。 今はまだ、知らないその味。 、のみぞ知る。 (2012.08.27) 文章書くのが久々すぎてナンテコッタ/(^o^)\ |