早朝、朝餉の支度のために起き出した千鶴は、偶然廊下を通りがかった斎藤を呼び止めた。 「斎藤さん、おはようございます。あれ? 今日は髪を結われていないんですか?」 「…! すまん、忘れていたようだ」 顔を洗いに行くのだろうか、斎藤は手拭いを携えていた。どんなときでもぴんと伸びた背筋、まっすぐに前を見据える瞳が今日は珍しく焦点が曖昧だった。斎藤でもぼんやりしているときもあるのだな、と千鶴はくすりと笑う。 「そういえば、三番組は昨日の夜、巡察のご当番だったんですよね。お疲れなら、まだ朝餉まで時間もありますし、もう少しお休みになっていてはいかがですか?」 「いや、毎日同じ刻限に起き、身体を動かさねば調子が狂うのだ。気遣いだけいただこう」 言うと、そのまま井戸の方へ行こうとする斎藤を千鶴は呼びとめた。 「あの! 斎藤さん…良ければ、私に御髪を結わせてもらえませんか?」 迷いは一瞬だった。腹に力を込めてかけた声に、斎藤がゆるりと振り返る。 「……なにゆえそのようなことを」 「そのままでは、お顔を洗うときに髪まで濡れてしまいますから」 千鶴の言に、斎藤はちらりと己の顔の周りに長く垂れかかっている髪を見た。 「…結紐が手元にないのだが」 「私の予備の紐ならありますから」 申し出に躊躇いを見せた斎藤だったが、熱心に見つめてくる千鶴に、そっと目を伏せると「では、頼む」と口にし、そのまま千鶴の部屋へ招かれるままに足を踏み入れ、腰を落とした。 「では、失礼しますね」 正座する斎藤の背後に膝立ちになった千鶴は、櫛を使って丁寧に髪を梳き始めた。斎藤の髪はゆるい癖がかかっているが、ひっかからないよう一櫛ずつ丁寧にくしけずってゆく。他人に髪を触れられるのは、屯所に髪結いがやってくるときぐらいだが、此処へやってくる髪結いはみな男ばかりだし、年若い女に髪を梳かれるのは初めてだ。目を伏せ、ゆるやかな手つきに身を任せていると、櫛を通し終えた千鶴が髪をまとめだした。首筋に触れる手が取り残しのないよう、襟足の髪を拾い、いつものように右の耳元でまとめる。千鶴の息遣いが微かに耳を撫で、斎藤は密かに息を呑んだ。思わず目を開けば、見慣れた自分の部屋ではなく、千鶴の居室が目に入る。無駄なものがない簡素な部屋だが、文机の上に飾られた一輪の花に娘の気配がした。 そうだ、ここは千鶴の部屋で、閉じられたこの空間にはふたりだけ。 落ち着きをなくす胸を細く息を吸って吐くことでなだめていたところで、「できましたよ」と背後から声がかかった。 「…すまない。感謝する」 どうぞ、と手渡された手鏡をちらりと見れば、見慣れた赤い結紐が見慣れぬ場所――自分の顔の横にあった。ゆるりと顔をあげれば、こちらを見ている娘の髪にも同じものが揺れている。くすぐったいような、それでいてあたたかなものに満たされた気がして、わけもなくこわばっていた口許がゆるんだ。 普段から黒か白しか身につけない斎藤だったが、一点の赤は程よく調和を乱している。 「斎藤さん、よくお似合いですよ」 「…そうか」 立ち上がる千鶴にしたがって斎藤も腰を上げた。 「手間を取らせた。朝餉の支度は間に合うか?」 「はい、大丈夫ですよ。それに、私が言いだしたことですから。わがままを聞いてくださってありがとうございました!」 ふわりと笑った千鶴は、「では、支度に行ってきますね」とそのまま身を翻して厨の方へ去ってゆく。 ゆらゆら、ゆれる髪と一緒に遠くなる赤が見えなくなるまで見つめていた。 二日後。 起きだした千鶴は、手鏡を前に白い紐を手に持っていた。 それは、千鶴が斎藤の髪を結った翌日――つまり昨日に、斎藤が持ってきた彼の結紐である。 彼は、なぜか千鶴の貸した赤い結紐の代わりにと、この白い髪紐を置いていったのだ。 どのような意図があってのことかはわからない。けれど、一昨日、揃いの結紐に目敏く気づいた沖田に散々からかわれたのに、千鶴のそれを疎ましく思わずにいてくれたのだろうか。 沖田は知らないけれど、これでどちらの結紐を使ったとしても斎藤と同じものになる。 「お揃い…か」 千鶴は、おもむろにおろしたままだった自分の髪を右の耳元で緩くまとめてみた。そこに斎藤からもらった髪紐を巻きつけて鏡を覗き込む。そこに、毎日目で追い続けるひとの姿が見えた気がした。 「斎藤さんの髪…柔らかかったなぁ」 しばしの間、かのひとの面影を鏡の奥に探してから、千鶴は結った髪をほどいた。 いつものように、頭の高い部分で一纏めにして、赤い組紐で結いあげる。もらったものは文机の引き出しにそっとしまった。 きっと彼には他意などなかったものを、ふたりだけの秘密のように秘めておけば、いつかそれをわかちあえる日が来るかもしれないだなんて――そんな、愚にもつかぬ願い。 (祈るだけなら…良いですよね、斎藤さん) (2011.07.02) 月刊薄桜鬼表紙の斎藤さんの結紐がどうみても千鶴ちゃんので興奮した\(^o^)/ |