元治元年、秋。 ぽつ。ぽつり。 先程までは明るかった空が、いつの間にかどんよりと重たい雲に覆われていた。秋の空は天気が変わりやすい。 「…雨、降ってきちゃいましたね」 斎藤とふたり、刀を研ぎに京の街へ出てきていた千鶴は店の軒先から空を見上げた。 出かけるときには晴れていたため、ふたりの手に傘はない。しかし、見つめる先、雨はしとしとと穏やかに、しかし確実に地面を濡らしてゆく。待っていればやむ気配もない。 しばらく通りを打つ雨を見ていた斎藤だったが、黙ってもう一度店の奥へ入っていったかと思えば、傘を一本手にして出てきた。 「雪村、これを使え」 「え…と、斎藤さんの分は?」 「必要ない。俺は少々濡れたところで問題はないが、あんたは女の身だ。そうもいかんだろう」 「そんな、私だけ使うなんて、そんなことできないです! 斎藤さんが使ってください」 譲る気はない、と目に力を込めて斎藤を見つめれば、しばしの無言の応酬を経て斎藤が折れた。 「…では、共に使うしかあるまい」 言うと、赤い和傘をぱさりと開く。左手に持つと、千鶴の方を振り返った。 「あんたはこちら側に入れ」 視線で己の左を示す斎藤に、千鶴は少しだけ迷ってから大人しく従う。 遠慮するように絶妙に距離をとって歩く千鶴を見た斎藤は、左手に持っていた傘を右手に持ち替えた。 「もっとこちらへ寄れ。あんたが濡れては意味がないだろう」 あいた左手でぐい、と千鶴の肩を引き寄せる。千鶴の左肩に斎藤の手が触れている。千鶴の斜め後ろを歩く形になった斎藤の息遣いが微かに首筋に触れる。無意識に呼吸を止めていた。 そんな千鶴の様子に気づくこともなくそのまま歩みを進める斎藤。他意のない様子に、千鶴は徐々に身体の力を抜く。そうすると、雨でひんやりとした空気の中、着物越しにじわりと斎藤の手のぬくもりが広がって、安堵と戸惑いと懐かしさと淋しさと、様々なものが綯交ぜになって胸の奥を震わせる気がした。 ――それから四年ばかりのち。 慶応四年晩冬のこと。鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した新選組は、先に江戸へ発った十五代将軍慶喜を追って江戸へ入っていた。隊内では慶喜公への不信が澱のように存在していたが、斎藤は以前と変わらず――否、それ以上に仕事に没頭していた。身を粉にして働く斎藤に声をかけようとして、でもかけられずにいた千鶴のところへ、土方が書類を片手にやってきたのだった。 「土方さん…」 「こんなとこに突っ立ってどうしたんだ」 「…あの、斎藤さんがずっとお部屋でお仕事をなさっているので……」 そこまで言って、千鶴は土方と斎藤を交互に見た。心配気に眉尻を下げる千鶴に、土方は手に持っていた書類をさりげなく袂へ隠す。 「千鶴、隊の連中の覇気が足りてやがらねぇんだ。ちっと奮発して精のつくもんでも作ってもらいてぇんだが…どうだ、頼まれてくれるか」 「はい、それは構わないですけど」 「というわけだ。斎藤、お前、千鶴と一緒に買い出しに行ってきてくれ。こいつ一人行かせるわけにはいかねぇからな」 「しかし、副長は仕事の用があってこちらにいらしたのでは」 目敏い斎藤が土方の袂へ視線を向ける。先程隠した書類はきちんと見られていたようだ。 「いや、これは…お前じゃなく近藤さんにな。ここはたまたま通りかかっただけだ」 「…………。副長のご命令とあらば、否やはありません」 納得がいっていないと雄弁に語る視線をただ黙って受け止める土方に、斎藤はややの間を置いて折れた。文机の上のものを手早く片付けだしたのを見届けると、「そしたら頼んだからな」と千鶴を見て、土方はそのまま去っていった。 そうして買い出しに出た帰り道。 ぽつ。ぽつり。 どんよりとしていた空が耐え切れなくなったように泣き始めた。 ぽつぽつ。ぽつぽつぽつ。 見る間に勢いを増した雨粒が千鶴を濡らす。 それを見た斎藤はさっと身を翻すと、近くにあった店に入っていってしまう。戻ってきた斎藤の手には店の屋号の入った番傘が一本。ぱさりと開いた傘を千鶴に差しかけた。 「生憎これが最後の一本だったようだ。あんたが使え」 「え…」 千鶴が反論しようと口を開いたところで、斎藤はほのかに苦笑を浮かべて首を振った。 「といったところで、あんたは聞かぬのだろう?」 じっと千鶴を見つめる瞳が「あんたは存外頑固だからな」と言っているようで、千鶴は目を見開いた。そうだ。こんなことがずっと前にもあった。たくさんの時間を斎藤と共に過ごしてきたのだ。もう、相手の性格なんてわかってしまっている。 「斎藤さんに風邪をひかれたら困りますから」 あどけなく笑う千鶴の頬に、不意に斎藤の手が伸びてきた。 ぴくり。身を固くする千鶴に、斎藤は左手の指でその頬をすっとなぞる。 「あんたに泣かれるのは困るな」 苦笑しているのに、その表情があまりにやさしくやわらかで。伝い落ちた雨雫を拭う指はあっけなく離れてしまったのに、頬は熱を増すばかり。それを自覚して、千鶴は咄嗟に顔を俯けた。雨から守れらた狭い空間、向かい合って立つ二人の足だけが時の流れに忘れ去られたように、そこに在る。 ぱたぱた。 ぱたぱたぱたぱた。 傘を打つ雨音が響く中、先に声を出したのは斎藤だった。 「、千鶴、帰るぞ」 「は、はいっ!」 向き合っていた足を帰路へ向ける斎藤に、千鶴も弾かれたように顔を上げる。 しかし、斎藤は顔を背けたまま千鶴を見ようとはしない。左手に傘を持ち、左側を歩く千鶴が濡れないよう差し掛けているが、斎藤の肩は雨にさらされていた。 「あの…斎藤さん? もっとこちらに寄ってください。でないと傘がある意味が…」 「い、いや! 問題ない。全身濡れているわけではないゆえ」 千鶴が顔を覗き込もうとしても逸らされてしまって、その表情を確認することは叶わなかった。 四年前には戸惑うほどの近さに揺さぶられた心が、今は不自然に開いた距離に震える。 千鶴に触れてきた指先はただ強すぎるほどに傘の柄を握るばかり。 (どうして…?) 忘れられないぬくもりの痕跡だけが胸を穿つ。 雨に煙る街の中、ほのかに血の気のさした斎藤に気づかぬまま、千鶴の問いは堂々巡り。 (2011.07.01) むいしきざな無自覚斎藤さん→意識すると途端にぎこちなくなる斎藤さん |