思い出を積み上げたらこの隙間は埋まりますか


 さよなら、とは言えなかった。
 もう二度と会えないだなんて、信じたくなかったから。


 御陵衛士として斎藤や藤堂らが離隊してから半年余りが過ぎていた。季節は冬。この冬最初の雪がちらりちらりと舞い落ち始め、別れのときに舞っていた桜の花びらを思い出す。斎藤からもらった花びらは小さなお守り袋に入れて肌身離さず持ち歩いている。
 ――もう、千鶴に残された彼との繋がりはそれしかなかった。
 忘れることなんてできなくて、街に出れば無意識に黒い背中を探してしまう。でも、風に流れる白を見つけたのは夏の夜、たった一度きりだった。それ以来、全く会うことのないまま季節は変わった。京の街は狭いようで広い。そんなことが今更のように身に沁みる。
 そのまま再び春が来るのだろう。そんなふうに漠然と考えていたが、油小路の変が起き、御陵衛士は壊滅した。そして、斎藤が再び新選組に戻ってきた。
「斎藤さん、おかえりなさい」
 幹部を除く平隊士たちは斎藤が土方の密命で伊東らと行動を共にしていたことを知らない。表面的にはただの裏切り者にしか見えない彼は、復帰後しばらく三浦休太郎の警護のために天満屋に詰めていた。事態の収拾をつけて戻ってきた斎藤に、千鶴はようやくまた斎藤との「日常」が戻るのだと、喜びをかみしめて斎藤にその言葉を告げたのだった。
 しかし。
「…ああ」
 低く応じた斎藤は、そのまま千鶴の横をすり抜けていってしまう。
 ――ただいま。
 そんな言葉を期待しなかったといえば嘘になる。また千鶴のいる場所が彼にとっての「帰るべき場所」になったのだと。離隊以前の彼なら、巡察から帰った折に声をかければ「ただいま」と言ってくれたのに。
 離れていた半年あまりの月日は、かつてあったはずのものさえ奪っていってしまった。
 ――変わらないものをこそ、信じている。
 そう言ったのは彼なのに。変わってしまったのは何だったのだろう。

 最初の頃は、躊躇なく血刃をふるう男たちが恐ろしかった。だけど、斎藤は隊務だからと、不器用なやさしさで千鶴を守ってくれた。無表情に見えるその顔の奥にある感情の揺らぎを見つけられるようになって、距離が縮んだ気がして嬉しかった。
 なのに。
 たった半年の空白で斎藤は変わってしまった。会いたいと思っても会えなかった半年間、とても遠い存在だったけれど、今はもっと「遠く」なってしまった気がする。手を伸ばせば届く距離にいるのに、伸ばせない。まるで初めて出会ったころのようだけれど、彼が怖いのではない。――手を伸ばして、正面から拒絶されるのが怖かった。

 半年間、間者としてその身を危険に晒し、皆をだますことはきっと大変な負荷だったのだろう。いつもの無表情の下、どんな痛みも葛藤も露ほども悟らせずに抱えていたのだろう。想像はできても、千鶴は離れていた間の斎藤について何も知らない。何も、分かち合えない。詮索もできなければ、ただの憶測で不用意な言葉を発することもできないのでは、何も気づかないふりをするしかなかった。

「…斎藤さん、」
「……なんだ」
「お茶をお持ちしました」
「そこに置いておいてくれ」
 静かに障子戸を開ける。文机に向かったまま、斎藤が振り返る気配はなかった。その背中に寂しさを感じて唇を噛みしめた。
「冷めないうちに召し上がってくださいね」
 茶請けと共に湯気の立つ湯呑を盆ごと戸の近くに置いてそのまま障子を閉める。
 ――離れていた時間を埋めるだけの時が流れれば、また彼のそばに行けるのだろうか。


(傍にいることで、負う必要のない傷をあんたに強いたくはない)
「赦せとは――言えぬな」
 その声は、誰にも届かない。



(2011.06.17)