「雪村、副長がお呼びだ」 「っ、は、はい…」 洗濯物を手に廊下を歩いている娘の姿を捉え、背後から声をかけると、彼女は大げさなほどに肩を震わせて振り返った。 運悪く羅刹と遭遇してしまい、屯所での軟禁生活を余儀なくされた娘の名を雪村千鶴という。雪の降る夜、死の恐怖にさらされた娘は、屯所の狭い一室で陽が昇り、落ちるまですることもなく大人しくしていたが、やがて申し出て雑用をするようになった。 何もすることがないのは、確かに手持ち無沙汰なものだ。そんなときは、頭の中で考えてもしようのないことばかりがぐるぐるとまわり、建設的な思考が働かない。それゆえ、彼女が仕事を求めるのももっともなことだと思う。 屯所の中をぱたぱたと動き回る雪村をしばしば見かけるようになり、俺は副長からの命で彼女の監視と世話をするようになった。観察しているうちに、彼女が後ろから近づかれることを嫌っているのだと気づく。 それもそうだろう。彼女はあの日、敵に追いかけられて逃げまどい、そして羅刹に遭遇してしまったのだ。新選組に属す者は、ただでさえ己の気配を絶つことに長けている。 新選組が雪村千鶴を完全に「安全」であると判断していないように、彼女もまた新選組を「野蛮で危険な場所」だという思いは消していないだろう。 そんな彼女を面白がって、総司などはわざわざ背後から声をかけて驚かせたり、いきなり目隠しをしてからかったりと、まるで初めておもちゃを与えられた子どものようだ。 大人げないと言ったところで、そんな言葉は総司にとって痛くも痒くもないのだろう。 故意にからかっている総司ばかりでなく、他の者たちが他意なく背後から声をかけるたびに同じような反応をする娘に、少しばかり情が湧くのは何も特別なことではなかった。 背後を取られることは剣客にとっても命を脅かされる場面である。それが、彼女のように年端もゆかず、また確かな護身術も身につけていないものにとってはどれほどの恐怖なのだろうか。 組織が「白」だと判断を下していない彼女の肩を持つつもりはないが、運命に翻弄されるこの娘に必要以上の心労を与えることもなかろう。 隠密としての任務もこなす役柄もあり、幹部内でも特に普段から気配を絶つ癖があることを自覚している。それゆえ、彼女の「恐怖」に気づいてからは極力背後から声をかけるときはゆっくりと、そしてはっきり気配をさせてから近づくようにしていた。 それからしばらくしたある日。 月の明るい夜だった。風呂から上がった彼女が脱衣所に、いつも髪を結んでいる赤い組紐を忘れていたのを見つけ、部屋へ届けに向かう。そして、廊下の角を曲がったところで、まだ濡れ髪のまま、ぼんやりと月を見上げている姿を見つけた。 意図的に床を軋ませるように踏みしめながらゆっくりと距離を縮めると、声をかける前に彼女が振り向いた。 「――斎藤、さん?」 「…月を見ていたのか」 「はい。今夜の月はすごく大きくて明るいから、灯をつけるのがもったいないみたいで」 月明かりに照らされた娘は、言いながら再び顔を空へ向けた。雲一つない紺碧の空は冷たく澄んでいる。 「……月を見るのも良いが、髪はきちんと乾かせ。風邪をひく」 「すいません…」 肩を落として謝る娘を前に、気づけば自分も風呂に入ろうとして持っていた手拭いを広げていた。 髪を挟むようにして根元から毛先へと手拭いで抑え、水気を取っていく。硬直したように黙って、やや俯き加減でされるがままになっている娘の白いうなじが目に入って、見てはならないものを目にしてしまったような気がして目を逸らした。 「…これで良いだろう」 「は…い」 「それと、これはあんたの結い紐なのではないか」 袂に入れていた赤い組紐を差し出すと、彼女は「あ!」と慌てて持ち物を確認して「そうです、ありがとうございます」と丁重に受け取った。 用をすませ、そのまま踵を返そうとしたところで背後から声をかけられた。 「あの…!」 無言で振り返る。 まっすぐに娘の目が俺を見ていた。 「斎藤さん、私に声をかけるとき、いつもわざと気配がするようにしてくださってますよね。…こちらの皆さんが、背後からいきなり危害を加えてくることはないってわかってるんですけど……どうしても体が反応してしまうんです。だから、気遣ってくださって、すごく嬉しかったです。ありがとうございます」 言って微笑む娘の表情があまりにも自然で。月明かりに照らされた白い頬がえくぼを刻むのに目を奪われた。 ――思えばそれが、彼女が「俺」に向けた最初の、心からの笑顔だった。 春まだき晩冬に、ぽつり、一輪開いた白梅のような、そんな楚々とした笑み。 彼女と過ごす最初の冬の終わりの夜に咲いたそれが目に焼きついた。 もう一度見たいと思ったところで、彼女にかけてやれるやさしい言葉など持ち合わせてはいないものを。 (2011.05.10) |