斗南の冬は厳しく長い。加えて、栄養をとろうにも日々の食糧はとかく乏しい。それなのに、「斎藤さんは毎日お仕事を頑張ってくださっているのですから」と絵に描いたような控えめな女性ぶりを発揮する千鶴は、毎食自分の取り分はごくごく最小限にして、できるかぎり斎藤に食べさせようとする。「千鶴も毎日家のことをしてくれているだろう。もっと食べろ」と言ったところで、頑固な所のある彼女は聞こうともしない。千鶴の芯の強さにはこれまで何度となく救われてきた斎藤だったが、こればかりは頭を抱えてしまう。 荒れた大地を毎日少しずつ耕して畑を作る。乏しい食材から創意工夫し、毎日の食事を整える。冷たい水で洗い物をし、家の掃除をする。千鶴のしていることは十分に重労働のはずだ。それなのに、あの娘ときたら「私はほそぼそと家のことをしているだけですから、そんなに食べなくても大丈夫なんです」と言い張って聞かない。 京にいた頃にも、こちらの都合で身柄を拘束し、千鶴には不自由な生活を強いていた。しかし、あの頃は行動の自由こそ限られてはいたが、今ほど食糧に事欠くことはなかった。せいぜい、気を抜けばおかずを狙ってくる永倉や平助の箸から千鶴の膳を守ってやればそれで良かった。さすがに会津での戦の末期には兵糧も尽いていたが、今の生活には終わりがない。長かった戦と謹慎がようやく終わり、新天地で一からやりなおそうと旧会津藩の皆と共に斗南まで来たは良いが、これでは千鶴の身が持たない。彼女が病になる前になんとかせねば――。そう考えていた矢先のこと。 斎藤が仕事から戻って玄関の戸を開け「ただいま戻った」と声をかけても返る声がない。それどころか、薄闇に灯るあかりもないことを訝しみながら覗いた厨で千鶴が倒れていたのだ。 この地には、まともな医師もいない。どうすれば。 意識のない千鶴を抱えて寝室へ連れてゆき、布団を敷いてそっと寝かせる。盥に水を張り、手拭いを出しながらぐるぐると思案する。そしてふと、あるものの存在を思い出した。少し前に市で見かけて手にした懐かしいもの。斎藤が最も信頼していた土方の家伝万能薬。そう、石田散薬だ。 とにかく今は一刻も早く千鶴に石田散薬を飲ませよう。 そうと決めたら、早速しまってあった薬を持ち出し、湯を沸かして熱燗を準備する。その傍ら、寝かせた千鶴の額に浮かぶ汗を絞った手拭いで拭ってやる。すると、浅い呼吸を重ねる千鶴が薄く目を開けた。 「斎藤さん……、わたし……?」 「覚えているか? 厨で倒れていたのだ」 あぁ。かすれた声が吐息交じりに呟く。 「ご迷惑、かけてごめんなさい……」 「迷惑などではない。いい機会だからゆっくり休め。 いま、薬の用意をしているが、その前に何か食べられそうか?」 問う斎藤に、千鶴はゆっくりとまばたきをして緩慢に首を振る。その拍子に、首筋に汗で髪がはりついているのが目に入った。熱で赤みを帯びた首筋とまとわりつく艶やかな黒髪。見てはいけないものを見た気がして、乾いた手拭いで押さえるように拭いてやる。 「そろそろ準備ができた頃だろう。しばし待て」 厨でほどよくあたたまった熱燗を手に寝室へ戻ると千鶴は目を閉じていた。「千鶴、」声をかければゆるりと目を開ける。 「飲めるか」 身を起こそうとする千鶴の背を支えてやり、懐紙に包まれた石田散薬を手渡す。続いて猪口に注いだ熱燗を差し出せば素直に受け取り、口元に運んだ。立ち上る酒気に一瞬ためらうように手を止めるが、口に含んだ薬を流し込まねばならない。ぐいと呷った。 「――けほっ、けほけほ」 酒に慣れない千鶴には、喉を通る酒の刺激が強かったのだろう、せき込む細い背中をさすってやり、おさまった頃合いを見計らって再び布団に横たえさせた。 酒のせいだろうか、先程よりも顔が赤い。水で絞った手拭いを額に置いてやる。 布団から手がはみ出ているのに気づいて、無意識に手に取った。もとはつるりとしなやかだった指は毎日の水仕事であれていた。次に軟膏を見かけたら買ってこよう、と考えながら両手で包みこむ。 「千鶴……俺が斗南へついて来てくれと言ったばかりに、お前に苦労をかけて……、すまない」 それは独り言だった。目を閉じた千鶴はもう眠りに落ちているだろう、そう思っていたのだが。 「…………さいと……さん、そんな顔…………しないで、」 酒精に潤んだ琥珀が斎藤を映した。握っていない方の手がそろそろと伸びて、斎藤の手に重なる。あつい。 「わたし、毎日……うれしいんです、よ?」 とろとろと今にも溶けてしまいそうに熱に潤む瞳を、何度も瞼が覆っては持ち上がる。 「……うれしい?」 「ふふ……だって、毎日……さいと……さんのために……ごはん、つくって。さいと……さんをお見送り、して。夜には……お出迎え、できるんです。まるで――さいと、さんの……およめさんに、なれた……みたい、で。ゆめ、みたい……」 それきり、千鶴は眠りに落ちた。残された斎藤の耳の奥、千鶴の声が響く。 ――お嫁さんになれたみたい。 妻の真似事のようなことをさせているという意識はあった。罪悪感もあった。けれど、そんなことで千鶴が嬉しいと思ってくれているとは。 普段、自分の希望をなかなか口にしない千鶴の本音を思いがけず知ることになった斎藤は狼狽えた。 羅刹に身を落とした自分では、夫になったところで千鶴をしあわせにしてやることはできまい。しあわせにもできないものを、嫁に欲しいなどと思ってはならない。ずっと心の底に秘めてきた斎藤自身の本心。 なんのことはない。己の考えにかまけて、千鶴の気持ちに気づいてやれなかった。そんな不甲斐ない斎藤であるのに、千鶴は。 「――真似事などで満足してもらっては困る」 閉ざされた目元に触れるだけの口づけを落とし、斎藤はそのまま千鶴の布団の隣に身を横たえた。 これからは追うのでも追われるのでもなく、互いのすぐ隣を歩いてゆく。そんな未来を思い描いて、斎藤は握ったままの手にほんの少し力を込めた。触れたそこからしあわせが拡がっていく。 結局、肝心の言葉をなかなか言い出せずに、斎藤もまた酒の力に頼ることになったのはしばらく後のことである。 (2014.04.27) |