※珈琲に関する記述が間違っているかもしれませんが、ド素人なのでご容赦ください。




 硬質なラピスラズリのような瞳が細められ、紡がれた言葉は千鶴にだけ向けられていた。




融解する蒼





 扉を開くと同時にカランカラン、とドアに吊るされたベルが柔らかい音を立てる。息を吸い込めば鼻腔を満たす珈琲の香ばしい薫りに、暗い木目調の年代を感じさせる調度品でまとめられた店内を白熱灯の温かみある光が照らしている。控えめな音量で流れるのはシックなジャズピアノだ。カウンターに立って珈琲をいれているのがこの喫茶店の店主。長い前髪が目元に流されており、その間から覗く紺青の瞳が手元を離れてこちらへ向けられる。
「いらっしゃいませ」
 落ち着いたテノールに「おはようございます」と返していつもの窓際の席に座ってモーニングセットを注文する。来週の試験に向けてテキストを読んでいると、マスターがプレートを手に千鶴の席へやってきた。見た目にも香ばしいきつね色に焼けたトーストとハムエッグ。横の器には瑞々しいレタスと胡瓜、トマトにポテトサラダが添えられている。そして湯気をたてる珈琲とシンプルな銀色のミルクピッチャーになみなみと入れられた乳白色のコーヒーミルク。
「今日の豆はコロンビアブレンドです。酸味、甘味、苦味のバランスが良いと言われています。ごゆっくりどうぞ」
 日替わりの珈琲豆についてひと言説明を加えながら丁寧にテーブルの上に食器を並べると、マスターはカウンターの中へ戻ってゆく。
 いつ来ても変わらぬ落ち着いたこの空間は千鶴のお気に入りの場所だ。路地の片隅にひっそりと看板を掲げるこの店へ通い始めたのは、千鶴がこの街へ越してきてまもなくの頃。春先のとても寒い朝だった。


 春からの大学進学を決め、初めて親元を離れて一人暮らしをすることが決まった。最低限の荷物を下宿へ運び込み、整理をするところまでは二日間で済んだ。新しい部屋で目覚めた千鶴は、これから先四年間の生活の基盤となる街を知ることから始めようと、ふらりと外へ出たのだった。
 東西南北に碁盤目状に規則正しく大路が走るこの街だが、歩いてみればそこかしこに小さな路がある。名前があるのかどうかも知れぬそんな路地だが、千鶴はそんな道が好きだった。一歩踏み込めば、そこにはその場所で生活する人たちの日常の気配が濃く漂う。うつくしく整備された街並みとはまた一味違った雰囲気に誘われるように歩いていると、時折一日の活動を始めたひとに出会う。
「おはようございます」
「おはよう」
 挨拶を交わし、千鶴はさらに歩く。どこからともなく漂ってくる梅の香りが春の訪れを感じさせてくれる。家々から漏れ聞こえてくるのはテレビの音、食器の擦れる音、子どもを起こす母親の声。生活音に耳を傾けながら、入り組んだ小道を気の赴くままに歩いた。そうしてどれくらいの時間が経った頃だろう。朝食を摂らずに出てきた腹が空腹を訴えたところで折りよくぶら下がる喫茶店の看板を見つけたのだった。
 いまどきのおしゃれなカフェというよりは、昔ながらの喫茶店という単語が似合うその店。外から中の様子は伺えないが、入口の扉には「営業中」の札が吊るされており、脇のスタンドに置かれたメニューにはモーニングセットの文字があった。少しだけためらってからやや重いその扉を引いて中へ入った。カランカラン。いらっしゃいませ。
 店内のカウンター席には珈琲を片手に手帳をチェックしている出勤前のサラリーマンらしい姿があったが、その他にはまだ客はいないようだった。カウンター席の他には、磨硝子になった窓際に二人連れ用のテーブルセットが三組だけ置かれている。いわゆる常連客が立ち寄る昔ながらの喫茶店というものには馴染みのなかった千鶴が入口付近でどうしようかと迷っていると、「お好きな席へどうぞ」とマスターが声をかけてきた。低くよく徹る声が印象的だ。ひとり客なのだからカウンター席の方が良いのだろうかと思いながらも、なんとなく敷居が高くてテーブル席に腰を下ろした。メニューに目を通していると、視界の隅に黒いズボンとカフェエプロンが入った。
「ご注文はいかがなさいますか」
「えっと、モーニングセットをひとつお願いします」
「お飲み物は珈琲、ミルク、オレンジジュースからお選びいただけます」
「珈琲でお願いします。――あの、こちらの珈琲って苦いですか?」
 千鶴は普段、どちらかというと紅茶を飲むことのほうが多い。本格的な珈琲を飲んだことがなくて、場違いだろうなと思いながらもオーナーに尋ねた。
 仰ぎ見たオーナーの容貌はとても整っている。すっと通った鼻筋に男性にしては色素の薄い肌。艶やかな髪は青光りしそうなほどに黒く柔らかそうだ。しかし、その長い前髪の間から見える瞳は冴えざえとした鉱石のように冷たい。例えるならラピスラズリ。沈黙に気圧されそうになった頃、ふっと目尻が下がり、冷たい青が柔らかさを帯びて細められた。
「珈琲に慣れていなくても、キリマンジャロブレンドなら苦味よりも酸味が強くなります。ミルクもおつけしますから大丈夫ですよ」
「そうなんですか? ありがとうございます。珈琲っていろいろ種類があるんですよね。知りたいなって思ってたんですけど、なかなか機会がなくて」
「一口に珈琲といっても豆によって味わいは随分違ってきますからね。順番にいろいろなものを試してみると良いですよ」
 そこで新たな客がベルの音を鳴らして入ってきたため、オーナーは「いらっしゃいませ」とカウンター席に腰掛けた客の方へ戻っていった。程なくして運ばれてきたモーニングセットに添えられたコーヒーミルクは、通常よりもなみなみと注がれており、千鶴はまろやかな珈琲をおいしく飲むことができたのだった。料理にもすっかり満足した千鶴は、以来、この店の常連になったのだ。


 平日は毎朝この喫茶店で朝食を摂り、軽く授業の予習復習などをしてから大学へ行く。そんなスタイルが確立してから季節が一巡りして春の気配の漂う頃。
 珍しく普段のスタイルを破って二日ぶりにその扉をくぐろうと喫茶店の前まで来た千鶴の視線の先で、磨硝子の窓に何やら紙を貼り付けているマスターの姿があった。
「おはようございます」
 後ろから声をかけると、マスターが作業の手を止めて千鶴の方へと振り返った。
「具合でも悪かったんですか……?」
 彼にしては珍しく挨拶を飛ばして返された内容に千鶴ははて、と首をかしげた。
「どうしてですか?」
「昨日の朝、来なかったでしょう」
「あ……、それは、一昨日の夜に友達が私の誕生日パーティーを開いてくれて、昨日は起きるのが遅くなってしまったんです」
「誕生日……。一昨日が?」
「はい」
「そう……か。言ってもらえればサービスしたのですが」
「そんな、サービスだなんて。お気持ちだけで十分ですよ。それに、こちらに通うようになったおかげで随分いろいろな種類の珈琲豆がわかるようになって、それがすごく嬉しいんです。ありがとうございます。……そういえば、」
 千鶴が止まっていた斎藤の手元を覗き込むと、真っ白な紙に「アルバイト募集」とタイピングされた文字が見えた。
「バイト、募集されるんですか?」
「ええ。実は、少しずつデザートメニューも増やそうかと思って」
「デザートですか! わあ、楽しみです!」
 どんなメニューなんだろうと想像し、目を輝かせる千鶴をしばし見ていたマスターは、ためらいがちに切り出す。
「――もし。もしあなたが良ければ、なのですが、ここでバイトをする気はありませんか」
「…………え? わたし、ですか?」
「はい。嫌でなければ、の話ですが」
「でも、私、まだそんなに珈琲にも詳しくないですよ……?」
「手順を追って少しずつ覚えていけば大丈夫です。それに、この一年で豆の種類は随分分かるようになったと言っていましたよね」
 少しだけいたずらっぽく細められたインディゴに、千鶴は降参とばかりに破顔した。
「私で良ければ、働かせてください。――斎藤、さん?」
「、なにゆえ俺の名を、」
「よくグループで来られるお友達の皆さんが呼んでるのが聞こえて」
「ああ……」
 沖田をはじめ、藤堂や土方たちのことを言っているのだろうと気づいた斎藤はなるほどな、と得心がいった。
「あ、私の名前は雪村千鶴と申します。改めまして、よろしくお願いします、斎藤さん!」
「こちらこそよろしく頼む」


 それから、斎藤は貼りかけていたアルバイト募集の紙を剥がすと、まだ客のいない店内にふたりで入った。
 契約内容について説明をするからと、店の奥手にある斎藤の住空間へ案内された千鶴がどぎまぎしながら待っていると、いれたての珈琲と、ふんわり厚みのあるパンケーキが運ばれてきた。
「これは……?」
「デザートメニュー用にと思っているパンケーキだ。雪村の二日遅れの誕生日祝いと、バイトの決定祝いに食べて感想を聞かせて欲しい」
 絶妙な色合いに焼けた生地の上には薄切りにしたレモンと練乳アイスがぽっこりと小山のように乗っている。全体にふりかけられたアイシングが見た目にも爽やかだ。
 まずは十分に見た目を楽しんでから、渡されたフォークとナイフでさくりと切れ目を入れる。思ったよりも軽く切れるそれ。アイスと一緒に口に運べば、冷たいアイスとレモンの風味が口の中に溶けて広がり、生地と見事に調和しながら舌を楽しませてくれる。
「斎藤さん、すごいです! すっごくおいしいです!! 今すぐお店に出して大丈夫です!!」
「そうだろうか」
「そうですよ! あ〜、でも、今は私だけの裏メニューみたいで嬉しい、なんて」
 冗談半分で言えば、斎藤がまた前髪の奥をやわらかく緩めて千鶴を見つめていた。
「そうだな。もう少し手を加えてみたい部分があるから、完成するまでは雪村専用メニューだ」
 いつの間にか素の口調で話しかけてくる斎藤に気づいて、千鶴の胸がとくん、と大きく脈打つ。
「おめでとう」
 ゆるやかに表情を変えるこの蒼を、いつまでも見つめていたい。



(2013.03.26)
一花さん、お誕生日おめでとうございます!!日記で書いてらっしゃった喫茶店のマスター×大学生バイトな斎千の出会い周辺を勝手に妄想してみましたすいません\(^o^)/
ともあれ、これからも仲良くしてやってください^人^今年も一花さんにとって充実した一年になりますように。 秋穂もゆ@TSUYU
menu