あんたはなにゆえ、俺から逃れようとはしないのか。
 疑うことを知らぬ無垢の花を手折ろうとする手が、止められない。




などか逃れぬ、無垢の花





 千鶴が年頃の娘だということは誰よりもわかっていたはずだった。最初に彼女が「少年」として屯所に連行され、詮議にかけられたときには既にその不運な人間が「少女」であることを見抜いていた斎藤である。それから流れた年月は「少女」を「女」にすることはあっても「少年」にすることはない。
 ――わかっていた、はずだった。
 しかし、実際はただそう思い込んでいただけで、実のところは全くわかってなどいなかったのだ。
 そのことを腹の底から理解したときにはもはや遅かった。


 局長と副長の好意で与えられた女物の浴衣をまとった千鶴を伴い夏祭りへ出かけた。白くきめ細かな肌。淡く染まった頬。紅をはいた唇は疑うことも知らずに斎藤の名を紡ぐ。髪を結い上げてかんざしで止め、露になったうなじに僅かに残る後れ毛は間違いなく「女」の色気を放っていた。そんな彼女を連れて祭りの縁日を歩けば、周囲の視線が己の隣に向けられているのがわかった。無遠慮に、四方から寄せられる視線に対する苛立ちと、このうつくしく愛らしい娘を隣に伴って歩けるのは自分だけなのだというほのかな優越感。混沌と綯交ぜになったものがぐるぐると静かに、だが確かな存在感をもって胃の腑の辺りを漂っている。それでも、娘姿の千鶴と共に歩く宵の口の縁日は、あふれかえる喧騒もどこか遠く、彼女の視線が自分を追っているのが心地良かった。
 しかし、そんな穏やかな時間は突如として奪われる。
 歩き疲れた千鶴を置いて飲み物を求めて離れた間に千鶴がさらわれたのだ。斎藤が新選組三番組組長としてその顔を広く知られていることなど周知の事実だというのに、千鶴をひとりにしてしまったのは間違いなく斎藤の手落ちだった。
 二人分の飲み物を手に戻ってきたその場に、千鶴はいなかった。彼女が連れ去られる場にいあわせた者に、犯人達が言い残した場所を伝えられる。手から滑り落ちた麦湯が地面に跳ね僅かに足元を濡らすが、そんなことはどうでも良かった。いったん屯所へ報告しに戻らねばならない。そんな、普段の斎藤ならば忘れるはずもない基本的な事項さえ、思考にのぼらることはなかった。
(俺が。俺が千鶴を危険にさらした…!!)
 己の失態への怒りに目の前が赤くなった気がした。無我夢中に人波を避け、目的地へ向かっていた。

「来たな! 斎藤はじ――」
 立ちはだかった浪士がすべて言い終わるのを待たずに鞘走った刀が血を吸い、生暖かい血潮が顔に飛んできた。次々と屋敷から出てくる浪士をことごとく刀の餌食にしてゆく。誰を何人斬ったのかなどわからない。鼻を衝く血臭の判別がつかなくなったころ、屋敷から人の気配がなくなった。
「千鶴! 千鶴!!」
 骸の倒れる廊下を駆け抜け、片っ端から襖という襖を開いては中を確認した。
 なかなか見つからない探し人の姿に焦燥が募る。
「――千鶴っ! 返事をしろ…っ!!」
 叫ぶように、うめくように。
 必死さの滲む呼び掛けに、斎藤の耳が小さな物音を拾った。
「千鶴!?」
 バシン、と襖を開く。だだっ広い広間の柱に身柄を拘束され、猿ぐつわをされた千鶴が「んーんー!!」と必死に声を出しているのが目に入った。
「っ! 千鶴…!!」
 斎藤の呼び掛けに応えた千鶴の目に安堵が灯る。
 名を呼び、駆け寄ると千鶴がすがるように斎藤を見上げてきた。
「怪我はないか」
 ざっと千鶴の全身に視線を走らせるも、目立つ外傷はないようだ。問いかけにこくこくと頷く千鶴にほっと息をつき、続いて膝を折って視線を落とす。
「……すまない、俺の落ち度であんたをこんな目に遭わせてしまった」
 平素の斎藤であればきっとこのような失態はしなかっただろう。意識せぬ間に浮かれていたのだ。あくまでも副長である土方に命じられて受けた「任務」であったはずなのに。普段から新選組のために心を砕いて働く千鶴をねぎらうために祭りへ連れて行き、無事に連れ帰るという内容の。
 唇を噛みしめ、目を伏せる。「隊務」もまともにこなせぬ人間が新選組の三番組組長だなどと、我ながら笑止の至りだ。しかし、そんな斎藤の頬をぶんぶんと動く空気が撫でる。閉ざした瞼を開けば、涙に目を潤ませた千鶴が必死に顔を横に振り続けていた。
「――俺のせいではないとでもいうのか」
 こくこく。
 今度は上下に動く真剣な表情の面。
 なにゆえ。
 なにゆえ、この娘はこれほどまでにあたたかなのだろうか。
 返り血に染まったこの身のつめたさとは、天と地よりも遠く隔たっている。
 猿ぐつわをはめられた姿は、千鶴が初めて屯所に連れてこられた日を思い起こさせる。あの日よりもまろやかに娘らしい線を描くようになった肢体。あの日、恐怖に揺れていたはずの琥珀は、斎藤を信じて疑わず、むしろ気遣わしげに己を見ている。多くのものが月日の流れと共に変わっていた。この娘に「己のために最悪を想定しておけ」と言っておきながら、想定できた彼女の「最悪」を未然に防ぐための行動に移せなかったのは他ならぬ斎藤だ。
(俺には、この瞳の信頼を受ける権利など…ない)
 健気で、純粋で、誠実。疑うことを知らぬ無垢な琥珀。
 にわかに、この瞳に見つめられることが耐えられなくなった。
 衝動的に、千鶴の目を左手で覆い隠す。
 斎藤の行動の意図がわからず、やや顔を傾けた千鶴は、それでも嫌がるそぶりは見せなかった。
 そうだ。疑っていないから。
 千鶴は、斎藤が自分を傷つける可能性などかけらもないと思っている。
 目元を隠してしまえば、白い布で覆われた口元しか見えない。すっとのびた細い首筋から肩にかけてのやわらかな曲線。くらりとするほどに、女の香りがした。
 気づけば、その口元に唇を寄せていた。白布に阻まれてその柔き唇の感触を知ることはできない。しかし、僅かに隆起したその場所を布越しに甘く食み、漏れ出た吐息のぬくもりを吸う。心なしか甘みが舌に広がる気がした。
「――んん…?」
 どれほどそうしていたのか。千鶴の漏らした声でようやく我に返った斎藤は己の行動を自覚して全脚力を駆使して後ろへ飛び退いた。
(俺は、何を…!?)
 視界を取り戻した千鶴は、何が起きたのかわかっていないようで、どこかぼんやりととろけた瞳で斎藤を見たが、斎藤はまともに視線を返すことなどできない。ぱっと顔ごと逸らし、よろよろと千鶴の背後へまわった。
 柱にぐるぐると巻きつけられた縄をほどき、千鶴の身を解放してやり、続いてしばしの逡巡ののちに猿ぐつわをはずしてやる。
「さいと…さん、」
 かすれた声が、斎藤の名を呼ぶ。
 身動きできぬ女の視界を奪って、布越しとはいえ勝手に唇を重ねた。そんな卑怯な男をまだ信じている純真な娘。
 己が何をされたのか、言葉にして説明してやればその信頼の眼差しを猜疑と憎悪で上塗りするのだろうか。
「………痛むところはないか」
 何を言えば良いのか。迷った末に、先程尋ねたことをもう一度口にすれば、
「大丈夫です。――あの、斎藤さんは…?」
 千鶴の手が、すっと伸びてくる。落ち着いた薄い青に花柄が染め抜かれた浴衣の袖口から見える細い手首には、縄で縛られた跡が痛々しく覗いていた。これも斎藤の罪だ。
 伸ばされた手に、反射的に身を引きかけた斎藤だったが、それよりも早く千鶴の繊手が斎藤の頬をなぞる。
「血が……、」
 つつつ、と滑り、離れてゆく白魚の指先が穢れることはなかった。もう血は乾ききっている。
「問題ない。これはみな返り血だ。俺の血は一滴もない」
「そうですか…良かった」
 ほっと息をついて顔をほころばせる千鶴。しかし斎藤はいつものように和むことなどできはしない。
 自分が何をしたのか。
 彼女が糾弾せずとも、斎藤自身が赦さない。赦しては、ならない。
 固い表情を崩さぬ斎藤に、千鶴はやや戸惑いを見せた。
「……あの、わざわざ助けに来てくださって、本当にありがとうございました」
 丁寧に腰を折る千鶴。しかし、斎藤はそんな彼女を前に目を背けた。
「礼には及ばん。もとより、俺の落ち度が引き起こしたことだ。恨むなら俺を恨め」
「な…っ、恨むだなんて、そんなこと…! 斎藤さんのせいなんかじゃないです…!!」
「――たとえそうだとしても、俺がここに来たのはあくまでも隊務を遂行するためだ。いずれにせよ、あんたが気を病むことなど何もありはしない。……今後は、もっと信のおける者を伴にしてもらえるよう、副長に進言すればいい」
 すらすらと流水のごとく流れ出てくる心にもない言葉。
 ――いや、心にもないわけではない。ただ己の全てが赦せぬと詰る自分と、それでも千鶴の隣を他の誰かに譲りたくはないと自儘を通すことを望む自分の双方が並立しているだけ。この入り乱れた感情の矛先をこれ以上千鶴に向けていいはずがない。
 傷ついた目で斎藤の背を見つめる千鶴には知らぬふりをして、斎藤は踵を返した。
 背後の千鶴がひっそりと唇を指で辿ったことには気づかぬままに。



な ど か 逃 れ む 、 花 盗 人 よ
(どうして私があなたから逃げることなどありましょうか)



(2011.07.21)
殺伐=汐さん、猿轡チュー=まっぱりんの希望をもとに書きましたが、殺伐…??orzこんなのだけどふたりに押しつけ隊士!神戸デートほんとにありがとう〜!! 秋穂もゆ@TSUYU
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