「一さん!あそこです!!」
「そうだな」
 ザク、サク、ザク、サク。
 薄闇に響く規則的な音は静かな大地に溶けてゆく。
 獣の足跡すらない新雪の中、点々とふたつの足跡が寄り添うように続き、やがて丘の上に一本立っている立派な大木の元へ辿り着いた。
 葉を落とし、裸になったはずのその大樹に、こんもりと雪が積もり、淡い雪明りの中で、まるで夜桜のごとき荘厳さだ。
「きれい…」
 妻の感嘆の声に頷き、俺はそっと背後を振り返った。どこまでも広がる雪原に、まっすぐに続く二組の足跡。それさえもが、美しいものであるように感じられ、そっと妻の肩を抱き寄せた。




あなたの痕を





 盆に小さな雪うさぎを載せて家に入ってきたのは、この斗南まで俺について来てくれた娘――今は、俺の妻だ。共にいると安らぎを覚える自分に気づいたのはいつのことだったろうか。剣に生き、剣に死ぬと思っていた俺が、人並みの平凡なしあわせを望む日が来るとは思ってもみなかった。
 千鶴が閉じようとしていた戸を開けて外を見る。雲に覆われた空の下、淡く発光しているかのように白い新雪に息を呑んだ。京や会津でも雪は積もったものだが、この地の雪深さはまた格別であるらしい。まだ斗南に来て初めての冬で、その厳しさはまったくの未知の領域だ。
「積もりたての雪って、すごくきれいですよね」
 上がりがまちに盆を置いた千鶴の声がすぐ後ろからした。
「ああ…そうだな」
 白い雪に残った足跡は千鶴のものだ。俺のものより一回り小さなそれは、見渡す限り一面白に覆われた世界の調和を少しだけ乱している。
「一さんも外に出てみられますか?」
 外を見つめたまま動かない俺に、羽織を取りに行こうとする千鶴を制し、「いや」と首を緩く横に振った。
「無粋に足跡をつけるのがためらわれるような光景だな」
「あ…、私の足跡がついてしまいましたね…。雪景色がきれいで、何も考えずに外に出てしまいました」
「いや、千鶴はかまわん。――ただ、俺がこの無垢な白に…触れてはならないような気がしただけだ」
「……一さんは、以前、雪の中に身を置いていると、自分ではない清らかな何かになれるのではないかと錯覚してしまう…そうおっしゃってましたよね」
「…そう、だったか」
 あれは、初めて千鶴が雪うさぎを作ってみせてくれた冬のことだった。雪の降り積むさまをじっと見ていた俺が口にしたことを覚えていたようだ。
 あの頃は、どんな惨劇の場にも降り積み、やがてすべてを覆い隠してくれる雪を見ているのが好きだった。しかし、今、貧しくとも清らかな大地に降り積もった、どこまでも清冷で美しい雪に己の足跡を刻むことには躊躇いを覚える。この白さ。この清さ。それはまるで――。
「まるで、千鶴――おまえのようだな」
 ぽつり。
 呟いた言葉をきっちり拾い上げた千鶴がこちらを見るのが分かった。しかし、彼女の瞳を見つめ返すこともできず、尚も視線を外に飛ばしていると、衣擦れの音がして袂を引かれる。やむなく視界に妻を収めた俺に、千鶴はしばし言葉に迷うように薄く口を開いては閉じていたが、心を決めたのか、まっすぐに俺を見た。
「一さんは、ご自分は穢れているから…だから、雪に足跡を残すことにも躊躇いを覚える。そう、思ってらっしゃるんですか?」
「……」
 千鶴の前で、言葉にして自分が「穢れている」ということは躊躇われた。穢れた身と知りながら、彼女を斗南のような貧しい土地まで連れてきた挙句、夫婦となってその生涯を自分に縛り付けた。
 俺は、なんと浅ましい男なのだろうか。
 いっそ、千鶴にののしってもらえれば気が済むのだろうか。
 そんなことを考えていると、くぐもった声が耳に届く。
「…私も、雪のようだから。だから、触れようとはしてくださらないんですか」
「ちづ…る…?」
「私は…私は!一さんが穢れているだなんて、そんなこと、一度だって思ったことはありません。あなたがたくさんの人を手にかけてきたというのなら、私だって同じです。一さんは、私を守るために何人もの人を倒してくださいました。信念のために刀を振るうことが罪だというのなら、あの戦乱の時代に罪のない人がどれだけいたか。私は――私は、夫婦になった今も、距離を置かれていることの方が…よっぽど辛いです」
 袂を握る手が微かに震えていた。
 千鶴と夫婦になったはいいものの、どうしても彼女に触れることを躊躇っていたのは事実だ。無垢な千鶴。生い立ってますます美しくなった千鶴。彼女の未来は、いくらでも選べたはずだった。その、数多あったであろう選択肢を奪ってしまったのがこの俺。そんな俺が、彼女の無垢を――純潔を、奪うことなど許されるはずもないと、そう思ってきた。それゆえに彼女が辛い思いをしているなどとは知る由もなく。

「お前がそんなことを思っていたとは知らず…すまない、千鶴」
「…一さんは、私に触れるのは嫌ですか?」
「っ、そんこと、あるわけがないだろう…!!」
 薄く膜を張った水底で琥珀が揺れる。雪に負けないほど白い千鶴の頬が薄紅に染まっていた。彼女の瞳に映るのはただ一人。この俺のみ。
 この雪白に。
 この無垢に。
 ――踏み入り、痕を刻みつけたい。

 縮む距離。閉ざされる瞼。頬に触れた手が、千鶴の目元から伝った露を拭う。
 吐息を奪い、執拗に舌を絡めた。息苦しさに、その身体から力が抜けるまで深く口づけ、ようやく離れたときにはその桃色の唇から雫がこぼれていた。その透明の糸を舌で舐めとると、目を細めた妻が放つ。
「私が欲しいのは、あなたの痕だけなんですよ?――はじめさん」
 濃厚に匂いたつ色香にくらりと酔ったような心地になりながら、この美しい雪原を乱すべく寝所へと場を移した。


 そして、翌朝。
 昨日よりも深まった雪のなか、ふたりで外に出て雪うさぎを作る。千鶴の作った小ぶりなうさぎと、俺の作ったやや大きいうさぎ。見つめ合うように向かい合わせに盆に載せると、千鶴が嬉しそうに笑うものだから、俺はその目元に唇を寄せた。
「あちらの丘の上に大木があるだろう。あそこに雪が積もると、夜には桜のように見えるらしい。…今夜、雪が降っていなければふたりで見に行かないか」
「もちろん、喜んで!一さんになら、どこまでもついていくって決めてますから」
「――ありがとう、千鶴」



(2011.02.18)
ヒビキさん、お誕生日おめでとうございます!!日頃の感謝を込めようと思ったのに、短い上にお祝いの雰囲気から程遠い残念さになってしまいました>< ともあれ、ヒビキさんにとって素敵な年になりますように! 秋穂もゆ@TSUYU
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