クチナシの香りだけではない甘い芳香のなか、何かが始まった瞬間だった。 「千鶴、このあと何か用はあるのか」 障子戸を開け放ち、自室で隊士たちから預かった繕いものをしていた千鶴のもとへ、音もなく現れた斎藤が声をかける。すると、まったく気配に気づいていなかった千鶴は、びくりと大げさに驚いて肩を揺らした。その際、右手に持っていた針が、左手の親指に刺さり、その指にぷっくりと真っ赤な血粒が浮き上がる。それを見た斎藤が、すっと千鶴の前に膝をつき、その手を取った。 「…すまん、驚かせたな」 「い、いえ!これくらい、すぐに治るので大丈夫です。ほら、私って鬼なので…!」 千鶴が懐から取り出した懐紙で傷口を押さえると、白い紙に赤い染みが拡がる。しかし、懐紙を取り去ってしまえば、もはやどこに傷があったのかもわからない。あるのは、白く細い、決して男のものとは言えぬ華奢な指だけ。千鶴が「ほら、もう治っちゃいましたから」と笑っても、斎藤はじっと傷のなくなった場所を見つめ続けている。 しばしの間、手を握られ、指を見つめられる千鶴が、所在なく視線を迷わせた後、ためらいがちに声をかけると、ようやく斎藤が口を開いた。視線は手に向けられたまま、押し殺した声が呟く。 「…いかに傷の治りが早かろうと、傷を負う痛みに差などありはしない」 怪我をすることに、人と鬼との差などないのだと、己の身を軽んずるなと、そういう意味なのだろう。斎藤の言葉に、千鶴は反論できない。千姫に聞かされた自分の正体と鬼の一族の話で、昔から傷の治りが早かったことへの説明はついた。でも、だからといって千鶴は自分を本当に「鬼」だとは思えないでいる。傷つけば当然のように痛い。それは「人」と同じで、「鬼」だから何が違うというのだろう。そう思ってしまうのは、ずっと「人」の中で生きてきたからだろうか。 そうはいっても、やはりこの怪我の治りの早さが尋常ではなく、不自然だということは理解していたし、「人」には受け入れられがたいものであるとも知っていた。だから、誰かに否定されるよりも先に自分で口にするのだ。鬼だから、と。言われなくとも知っているから、だから何も言わないで、と。 でも、そんな千鶴の卑怯ともいえる言葉に、斎藤は否定を口にした。 鬼であろうと人であろうと、痛みは痛みなのだと。 「そう、ですね…。…すいません」 表情を翳らせ俯いた千鶴から、斎藤はすっと手を引いた。 「…わかったならいい」 身を引いて立ち上がった斎藤が、しかしそのまま動こうとしないことに気づいた千鶴が顔を上げると、まっすぐにこちらを見る斎藤と目が合う。 「え…っと、」 「まだ、先程の問いの答えを聞いていないのだが」 「……。あ!この後…ですよね?特に用という用はないので、夕餉の支度を手伝おうかと思ってるのですが」 「では、支度をしろ。出掛ける」 「え?お出かけって、巡察…は、今日は原田さんの組が担当でしたよね」 「巡察ではない」 それっきり、説明しようとしない斎藤は「支度を終えたら門前へ来い」とだけ告げて部屋を出て行った。 そして現在、千鶴は斎藤の背を追って京の街中を抜け、市中から少し外れた山の中にいた。 照りつける太陽は、木々に遮られており、時折吹き抜ける風が汗を撫でて涼しい。 「斎藤さん…?」 振り返ることなく歩みを進める背中に声をかけると、ようやく振り返った斎藤は竹でできた水筒(すいづつ)を取り出し、「飲むか」と勧めてきた。 夏本番はこれからとはいえ、陽射しの中、随分歩いたため喉の渇きを覚えていた。こんなに歩くのだと知っていれば、自分も持ってきたのだが、行き先も知らなかったのだ。せいぜい市中のどこかに行くのだと思っていたのでは、水筒という選択肢は思い浮かばない。千鶴は、感謝を述べてありがたく水筒を受け取り、水を口に含んだ。喉を滑り落ちていく水に渇きが癒えていく。 こくこくと飲み終え、「ありがとうございました」と斎藤に返すと、彼も水筒を傾けて水を飲みほす。 「あの…斎藤さん、お水足りましたか?私が先にいただいてしまったから…」 「いや、十分だ。また水を汲めば済むことだ。その先に行けば、休憩できる場所がある」 斎藤の言った通り、まもなくふたりは小さな神社についた。 山の中にひっそりと佇む社にひとけはなく、ひときわ立派な樹が大きく枝を張り広げているばかりだ。注連縄の張られたその樹の大きさに千鶴が感嘆の声をあげると、斎藤も無言で肯定を返す。 木陰に据えられた古びた石でできた腰掛けに並んで座り、ほぅと息をつく。 さらさらと風が葉を揺らす音。虫の音。 言葉なく沈黙を守っていると、屯所の室内で感じていた蒸し暑さはほとんど感じない。山の中は風が涼しい。 「…毎日、屯所にいては暑いだろう」 ぽつりとこぼされた言葉は、千鶴に斎藤の気遣いを教える。 「私のために連れてきてくださったんですね。ありがとうございます!すごく風が気持ち良くて、ここに来れて嬉しいです」 「この奥の川は、夜になると蛍が舞うらしい。……夕餉までには戻るよう、副長から言われているゆえ、見ることはかなわんが…。すまない」 「そんな!私は斎藤さんがここに連れてきてくださっただけで、もう十分しあわせですから、謝らないでください!…でも、川は見てみたいです。良いですか?」 「ああ」 斎藤の許可を得るとすぐに腰を上げ、小走りで社の奥手へ向かっていく。そんな無邪気な姿が、普段屯所の中で控えめに行動する千鶴とは違って、斎藤はほのかに目元を緩めた。 斎藤が千鶴に追いついたときには、澄みきった川に足袋を脱いで入っている千鶴がいた。 「斎藤さん!すっごくきれいなお水ですね!冷たくって気持ちいいです…!!」 屈んで手を水に浸す千鶴を確認して、斎藤も上流側へ足を運ぶ。川岸から、空になった水筒に水を汲んで口にすると、ひんやりとした冷たさが喉を通っていく。それを見た千鶴も手で掬った水に口をつけた。 やがて、どこからともなく漂ってくる甘い芳香を追って、千鶴はパシャパシャと上流に向かって歩き出した。近づいてみれば、岸部に白い花を咲かせる低木に気づく。クチナシの花だ。 岸に上がろうとした千鶴は、しかし花に気を取られて横合いから伸びた枯れ枝の存在に気づかず、強く足を擦りつけてしまった。 「…痛っ!!」 思ったよりも深く、そして縦に長く伸びた傷口から鮮血が滲み出てくる。 思わず足を庇うように座り込みかけたところで、ふわりと身体が宙に持ち上げられた。 「大丈夫か」 横抱きに千鶴を抱え上げた斎藤が問うてくる。 「え、あ、あの!」 思わぬ近さから掛けられた声に千鶴が動転している間に、近くの木の根元に凭れるようにして座らされた。 千鶴を下ろしてそのまま、彼女の前に膝を折った斎藤は、まっすぐに朱線を引く千鶴の足を持ち上げ、その傷口に視線を注ぐ。 深めの傷とはいえ、既に千鶴の身体は傷の治癒を始めている。閉じていく傷口に目を細めていた斎藤だが、不意に顔を寄せると、血の跡を辿るように唇を這わせた。 ちろちろとあたたかいものが自分の肢を伝う感触に、千鶴は息を呑む。口元を手で覆いながらも、魅入られたように斎藤の舌先から目が離せない。 ――短く、長いときが流れた。 千鶴の肢の傷は完全に塞がり、その鮮紅さえもが跡形もなく拭い去られ、斎藤の眼前にあるのは、柔らかく、眩しいほどの白さをもった女の肢体だけ。 「さ…ぃと…うさ、ん…」 掠れた声が戸惑いをもって掛けられるにいたって、ようやく斎藤は自身の行動を振り返った。 ――嫁入り前の若い娘の肢に唇を寄せ、血潮を舐めとった。 「っ!!!す、すまない…!!」 慌てて千鶴の肢から手を離し、数歩後ろへ後ずさる。 「い、いえ!!て、手当てしてくださってありがとうございます!もう大丈夫ですから…!!」 頬を赤らめた千鶴がふるふると顔を横に振って気丈に笑う。 「えっと…そろそろ帰らないと、夕餉に間に合いませんね!」 足袋と草履をはきなおして立ち上がった千鶴が背を向けて先に歩き始めたため、斎藤もその後を追う。 ほんの刹那触れていた娘はまだまだ無邪気さを隠した子どものようだとばかり思っていたのに。 目から離れなくなった白さが斎藤の胸を掻き乱してゆく。 ――この瞬間から、何かが音もなく始まったのだと、彼が気づくのはそれからずっとのちのこと。 (2010.10.10//指先) みやさん宅で拝見した斎千イラストがツボ過ぎました!千鶴ちゃんの足を取る斎藤さん(他意はない)に萌える…!!我に返って内心動揺しまくりな斎藤さんも萌える!!…というわけで、勝手にお話をつけさせていただきました← これからも陰からこそこそ応援していますっ〃▽〃 秋穂もゆ@TSUYU |menu|
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