あれはいつのことだったか。もう随分前のことだ。
 この身が変若水の毒に穢され、陽光を厭い、晴れ渡る蒼穹のうつくしさをめでられなくなったあの日々。己は永久に組織の影であって、日の下に出ることなどないと思っていた日々。
 そんな日々の中でも、この身には、常に寄り添う太陽があったのだ。

 蒼空の下、寄り添う妻と桜をめでながら思い出すのは、やはりずっと昔のこと。




其は日輪の指に似て





 一と千鶴が共に暮らすようになって数か月、先日ようやっとの思いで祝言を挙げるところまでこぎつけた。隣人の助けのおかげでふたりの間にできた“夫婦”という名のある関係を、千鶴はとても嬉しく思う。

「そろそろ一さんを起こさないと…」
 朝餉の準備を終え、いまだ眠る夫のもとへ足を運ぶ。

 一は、幕末の戦乱の中、千鶴の養父が作った変若水を飲み、羅刹と化した。十分に薄められていない変若水は、ひとを闇に蠢く生き物に変えてしまう。太陽の光を疎み、闇夜の中、血を求めていきる。月下に浮かび上がるその白髪は苦しみの証のよう。
 どんなに陽光がやさしく降り注いでも、それは羅刹となった一にとっては矢の雨のごとき痛みを伴うもの。どんなに蒼穹が澄み渡っていようとも、そこに太陽のある限り、身体の苦痛は拭えない。
 「千鶴を守るため」と羅刹になってからもずっと、日中の活動を決してやめることのなかった一だが、辛くなかったわけがない。
 戦が終わり、斗南に来て以来、毎日のように口にする陸奥の清浄な水のおかげか、一が羅刹化することは少なくなった。それでも、千鶴は毎朝閉ざした戸を開けるとき、一が少しばかり目を伏せて準備をしてから行動に移すことに気づいていた。東の空から昇る太陽の光はまばゆく、千鶴にとっては新たな一日への始まりを告げる心地良いものであっても、一とはその感情を共有することができない。

 窓を閉めたままの薄暗い部屋の中、千鶴は一の枕元で膝を折った。漏れ落ちるわずかな光の中で、すやすやと眠り続ける夫の顔をまじまじと見つめる。
 すっと通った鼻梁と、宵闇の空に似た柔らかな髪。そっと触れると馴染んだ手触りがして、撫でるように何度も触れた。
「一さん、朝ですよ?」
「一さん、朝餉の準備が整っています。起きてください」
 何度か言葉を重ねても、閉ざされた藍色は見えないまま。
 手は頭に触れたまま、横から覗き込むように距離を詰めると、それまでピクリとも動かなかった瞼が呆気なく開き、そこには至近距離で自分を映す瞳があった。
「おはよう、千鶴」
「お、おはようございます、一さん。……もしかして、先から起きてらっしゃったんですか?」
 問うと、千鶴が触れていた手にそっと体温を重ねてきた一の手は、きゅっと千鶴の手を掴んで頭から離した。そのまま妻の手を握りこんで、まっすぐに千鶴を見る。
「近頃朝夕は冷え込むようになったゆえ、お前が隣にいなければ肌寒い」
「それって、私が床を出たころには目覚めてらっしゃったってことですか!」
 空いた片手を腰に当て、肩を怒らせながら問うも、目の前の夫には全く効果がないようで、ふ、と淡い笑みで返されてしまう。
「千鶴は怒ったところも愛らしいな」
「っ、もう!一さん、お仕事に遅刻されても知りませんからね!?」
 頬を膨らませて部屋を出ていこうとする千鶴を、しかし一は握ったままの手で引き留めた。
「…床から出ると寒い」
 ぐい、と引っ張られた千鶴は、たたらを踏んで一の腕の中に納まる。
「少々ぬくもってからでも、まだ遅れることはあるまい」
 千鶴の耳元でささやくように口にする一に、千鶴は吐息一つの間を置いて応えた。――背に手を回すことによって。
「…今からそのようにおっしゃっていては、これから来る真冬の寒さに耐えられませんよ?」
「ずっと千鶴が共にいてあたためてくれれば問題ない」
 いたって真面目な表情で返してくる一に、千鶴は熱くなった顔を胸にうずめて隠した。
(…耳が見えているのだがな、)
 初々しい妻の反応に、一は頬を緩めるのだった。


 一通り体温を分け合ったところでようやく身体を離すと、千鶴が楚々と戸に近寄って桟に手をかけた。開ける前に、一を振り返って「開けますよ」といえば、彼は言葉なく頷いてみせる。
 引き結ばれた唇を確認してから戸を開けると、肌寒くも気持ちの良い早朝の空気とともに、遠い地平から曙光が伸びてきた。
 眩しさに少し目を細め、隣に歩み寄ってきた一を見上げると、微かに眉間に皺を寄せながらも東の空を見つめる。
「今日もいい天気だな…」
「はい…。お洗濯ものがよく乾きそうです」
 一を見てやわらかく笑う千鶴の目は、差し込む陽光にきらりと光をのせていた。
「…洗濯するのは良いが、働きすぎぬようにな」
「はい、ありがとうございます。…でも、本当は、洗濯するのは自分のためでもあるんです」
 一を見る千鶴は恥ずかしそうに目を伏せた。いまひとつ要領を得ない一が首を傾げて見守っていると、そろそろと視線を上げた千鶴が、一の着物の胸元にそっと手を添えた。
 上目遣いで告げる妻の言葉に、一はくらりと陶酔をおぼえる。

「……お日様の下で一さんの服を洗って干すと、こうしたときに、一さんとお天道様の香りがして、すごく…しあわせな気持ちになれるんです」

 添えていた手はそのままに、一の胸元に片頬をつけるようにして身を寄せた千鶴が目を閉じて深く息を吸った。
「一さんは、お日様の香りですね」

 新選組では、しばしば夜陰に紛れて隠密行動をとり、暗殺などの行為に手を染め続けていた。
 羅刹になってからは、身を蝕んでゆく太陽に、以前にもまして夜陰を好むようになった。
 陽の光から、一番遠いところにあって、身にまとわせるものと言えば血錆の香りだけだった。

 ――そんな、斎藤一という人間に、彼女は。千鶴は、

(陽の香りをくれるのだな…)

 胸の底が震えるような感覚を押し殺して、一は改めて東の空を見つめた。
 先程よりも高度を上げた光源は、世界を黄金色に染め上げている。

 千鶴の瞳は琥珀の色。日に透けると輝くその瞳は、まさに曙の光に似て。
 彼女のくれる体温は、かつて、当たり前に浴びていた陽光の心地良さに似て。
 彼女の紡ぐ言の葉は、日の下で生きることへの赦しに似て――。


 いつか、千鶴とともに歩み続けたならば、心の底からこのまばゆい光をいとおしめる日が来るのだろうか。
 まがいものの薬でつないだ、まがいものの命。
 そんな、自分には過ぎたものを、惜しみなく注ぎ続けてくれる千鶴に、震えそうになる声で紡いだ。
「ありがとう、千鶴。……お前こそが、俺の、日輪だ」


 ――そう語ったあの日は、ずっと昔のこと。
 晴れ渡った春の日の下、桜の花弁のついた妻の着物の肩口に顔を埋めると、やはりやさしい陽だまりの香りがした。



(2010.10.09)
ED後、新婚夫婦の切甘とのリクエストだったのですが…いかがでしょうか。ミドリさんからいただいたのが「手」にまつわるお話だったので、私もテーマを手(指)にして書いてみました。
改めまして、ミドリさん、相互リンクありがとうございました*^▽^*   秋穂もゆ@TSUYU
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