朝から斎藤の部屋を訪れ、布団を片付ける。黙々と働いていると、その視線を背に感じた。
「…手間をかけてすまない」
「いいえ、お手伝いできるのは嬉しいですから。――あの、よろしければ御髪も結わせてください」
 膝を折った斎藤が畳に正座する。斎藤の右横に膝立ちになった千鶴は、ぴんと伸びた背に流れる髪をまとめるように触れる。
 初めて触れる宵闇を溶かした色の髪は思ったよりも柔らかかった。瞑目し、千鶴に髪を委ねている斎藤の顔をちらりと見る。男性にしては長めの睫毛が影を落としていた。
「…どうかしたか」
 薄い瞼の先に涼やかな瞳。至近距離でかち合う視線に心臓が跳ねた。
「い、いえ!」
(斎藤さんのお世話をするって決めたのは私なのに、何してるの…!!)
 自分を叱咤し、再び斎藤の髪に手をかける千鶴に、斎藤はやや俯きがちに目を伏せた。
 早朝の屯所。起きているのは千鶴と斎藤だけ。遠く雀たちのさえずる声ばかりが、薄明の空に響いていた。




止め処なく溢るる





「あれ、一くん、君いつから右利きになったの」
 広間で夕食をとっていると、沖田が斎藤の箸を持つ手を見て言った。
「…たまには、普段使わぬ手を使うのも修行だと思っただけだ」
「ふぅーん…じゃあなんでお椀を持たないの?」
「…他意はない」
 緩慢に椀を持ち上げた斎藤が僅かに眉を潜めた。
「…一くん、無理は良くないよ。昼の巡察で千鶴ちゃんを浪士から庇ったって言ってたよね?そのとき左手を痛めたんじゃないの」
 沖田が斎藤の左上腕を掴み、少し力を入れると明らかにその表情が歪む。
「斎藤さん、やっぱりあのときお怪我を!?」
 千鶴がその脇に走り寄ると、斎藤は問題ないと左手で制しようとした。しかし、腕を持ち上げた途端に走る痛みに、思わず右手で左腕を庇ってしまう。
「やっぱりお怪我なさってるんじゃないですか…!」
 千鶴は即座に斎藤の右手をとると、有無を言わさず部屋へ伴う。着流しをはだけさせ、一通りの手当てを施したところで沖田が広間から膳をふたつ持ってやって来た。
「一くん、そんな腕じゃ食べられないでしょ?君と千鶴ちゃんの分のお膳持ってきたから、千鶴ちゃんに食べさせてもらえば?…広間では恥ずかしいだろうけど、ここなら良いでしょ?」
 ニヤニヤと笑いながら膳を置くと、手を振って去ってしまう。その場に残されたのは、食べかけの二人分の夕食が載った膳と、斎藤と千鶴だけ。
「……斎藤さん、お嫌でなければですけど…お食事のお手伝い、させてもらえませんか…?」
 沈黙を破り声をあげたのは千鶴。対する斎藤は、折角の好意を無下にはできぬ気持ちと、気恥ずかしさの狭間で言葉を失う。しかし、不安げに揺れる眼差しで見上げてくる琥珀に、ついに意を決した。
「……手間をかけてすまないが…よろしく、頼む」
 目を逸らしがちに呟いた声は、きっちり千鶴の耳に届き、花が綻ぶように笑んだ顔が視界の隅に映った。食事の介助を受けるなど、記憶にないほどの昔以来で、ひどく頼りない心持ちになって、料理の味もよくわからなかった。しかし。
「美味しかったですか…?」
 すべてを平らげたあとに問われた千鶴の言葉には、迷いなく頷いていた。「お怪我が治るまで、私にお世話させてくださいね」と微笑む彼女は慈母のごときやさしさで、しかし、斎藤は少しばかり途方にくれる思いがしたのだった。

 斎藤が風呂から上がって就寝の支度をしようと押し入れから布団を出そうとしたところで、障子戸に小さな影が映る。
「斎藤さん、よろしいですか?」
 声の主に、斎藤はらしくもなく一瞬背を強張らせた。が、即座に己を律すると、襖に掛けていた手を離して短く肯定を返した。そろりと障子戸が開かれる。
「そろそろお布団の準備をされる頃かなと思って。もう敷いてしまっても良いですか?」
 まさに床の準備をしようとしていたところだった斎藤は、その頃合いの良さに軽く目を瞠った。
「いや、この程度なら問題ない」
「いいえ!少しでも早く完治させるためにも、できるだけ左手は使わないでください!」
 いつになく強気な様子で斎藤の部屋に入ってきた千鶴は、彼の横を通り過ぎて押し入れの戸を開けると、手慣れた動作で床の準備をする。
「明日の朝もお片付けに伺うので、起きたらそのままにしておいてくださいね」
 布団を整え終えた千鶴が身を起こすのを半ば呆気にとられて見ていると、立ち上がった千鶴が「あ」と口元に手を添えた。
「…?」
「斎藤さん、ちょっと失礼しますね」
 一言おいて千鶴が吐息の触れる距離に立つ。思わず一歩下がろうとしたところで、千鶴の手が伸びて斎藤の腰の帯に触れる。
「片手だと帯を締めるのも不自由ですよね」
 軽く緩められた帯が手早く締め直される。斎藤の身にしっかりと単衣が馴染んだところで、千鶴が離れた。満足気に斎藤の腰元を見る彼女を直視できず、顔をそらした斎藤に気付いた千鶴は、ようやく自分のしたことを自覚したらしい。たちまち耳まで真っ赤に染め。
「す、すいません!私ったら、何も考えずについ…!!」
 千鶴に負けず劣らず頬を染めた斎藤は「いや、……感謝する」とだけ漏らす。
「私が勝手にしたことですから…!!で、では、おやすみなさいませっ」
 動揺も露わに千鶴が出ていった障子戸から顔を出せば、ぬるい風が頬を撫でた。頬の火照りは引きそうにない。

「あれー?食事を手伝ってもらった後は着つけてもらったの?一くんも隅に置けないなぁ〜」
 ふらりと現れ、狐のように笑う沖田を問答無用で追い返すと、ぴしゃりと戸を閉めた。


 翌朝。
 斎藤の朝は早い。食事当番であろうとなかろうと、夜明け前には身体が自然に覚醒する。
 床から出て、まずは単衣を脱ぐ。結ばれた腰紐を目にすると昨夜のことが脳裏をよぎってゆるく頭を振った。手早くいつもの着流しを身にまとい、なんとか腰帯を巻き終えたところで、敷かれたままの布団を見た。千鶴は片付けに来るといっていたが、起きたところで稽古も食事当番も禁じられている斎藤にはすることがない。
「…片付けるか」
 膝を折ろうとしたところで、「雪村ですけど、斎藤さん起きてらっしゃいますか?」と声がかかった。
 どうやら、昨夜の宣言通りにやって来たらしい千鶴に、斎藤は微苦笑を浮かべて「起きている」と答える。丁寧に障子戸が開かれ、千鶴が顔を出した。
「おはようございます、斎藤さん」
「ああ、おはよう。…こんなに早く起きて、十分休んだのか」
「はい。それに、もともと今日は朝餉の当番なので、特別早いわけじゃないんです」
 てきぱきと布団を畳んで押し入れに片付ける小さな背中。手伝おうとすると断られるので黙って見ていると、片付け終えた千鶴が振り返った。
「また夜には伺いますね」
「…手間をかけてすまない」
「いいえ、お手伝いできるのは嬉しいですから」
 千鶴が言葉を切り、迷うように唇を開く。視線で続きを促せば、
「――あの、よろしければ御髪も結わせてください」
 言われて初めて、今日はまだ髪を結っていなかったことを思いだした。
 返事の代わりに正座すれば、すぐ隣に千鶴が膝を折った。息遣いさえ感じられるほどの近さで髪に触れてくる存在に右半身が熱を帯びたような気がする。雑念を払うべく目を閉ざしてされるがままになっていると、千鶴の動きが止まっていることに気づいた。
「…どうかしたか」
 目を開ければ、予想以上に近くに琥珀色があった。そこに映り込んだ自分の姿さえ見えそうな距離に、斎藤は言葉なく息を呑む。慌てて身を引いた千鶴を確認すると、斎藤もまたことさらに緩慢な動作で視線を逸らして目を伏せた。
 ややの間を置いて斎藤の傍へ戻ってきた千鶴は、手早く髪を結う。
 最後に、足元に畳んだまま置いていた襟巻をふわりと巻きつけると、朝餉の支度があるからと千鶴は部屋を出て行った。
 いつも通りの髪形だが、どこかむず痒さを感じて、斎藤は外へ出た。胸いっぱいに吸い込む空気は瑞々しく、身体の隅々まで行き渡っていく。
(こんなことがいつまで続くのだろうか…)
 鈍く痛む左腕を見つめながら、それでもどこか満更でもないと思っている自分がいることには気付かぬふりをした。


 一週間後。
 毎日甲斐甲斐しく世話を焼いていた千鶴だったが、ついに斎藤から怪我が完治した旨を言い渡された。
「随分世話になったな。ありがとう」
「いえ、元はと言えば私のせいでお怪我をさせてしまったので。庇ってくださって、本当にありがとうございました」
「…お前が気にすることではない。俺は隊務をこなしたまでだ」
「そう、ですよね。でも…いつも斎藤さんが色々と助けてくださること、すごく感謝してるんです。ありがとうございます」
 ふわり、笑った顔はどこか切なげで胸を衝かれた。丁寧に頭を下げてから去っていく背中に、斎藤は無意識に口を開く。
 ――ちづる、
 紡ごうとした言葉は音にならず、喉元で絡まってしまう。
 溢れそうな想いをとどめようとすれば、その名さえも呼べなくなる。


(ただ、その笑顔を守りたいだけなのに)



(2011.04.28)
ついったネタからサルベージ。
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