大学へ向かう駅のホーム。いつもの電車が寸分の狂いもない予定時刻に滑り込んできて、ゆるゆると速度を落としていく。千鶴はいつもの時間、いつもの場所で列に並んでいた。完全に停止した電車の扉が音を立てて開き、並んでいた人々が順番に車両へ吸い込まれてゆく。
 一両目の一番前。そこが今の千鶴の定位置だ。
 座席に座ることはせず、運転席と客席を隔てる壁に入ったネームタグを見た。
 運転手の名はよく見知ったもので、千鶴そっと目元を緩める。
 ガラス張りの窓から見えるのはまっすぐに続いていく線路と――ちらりとこちらを振り返る運転手の横顔。笑みを深めて藍色の瞳を見返すと、ほのかに笑んだ彼はすぐに前を向いて業務へ戻った。
 白い手袋をはめた手が、忙しなく計器の上を滑り、レバーを操る。やがて流れ始める景色を今日もじっと見つめ続けた。彼と同じ景色を見る30分間から、千鶴の一週間は始まる。

 斎藤一。
 それが千鶴の恋人の名であり、今現在彼女を乗せて走る電車の運転手の名でもある。
 ふたりの出会いは、数年前に遡る――。




ゆらりゆられて線路の果て





 飲み屋をはしごするにはまだ早く、アフターファイブを満喫するには遅すぎる夜の鉄道。泥酔の乗客が発生するにはまだ早い時間帯。
 終点に到着し、斎藤は車内点検のために車掌室から出た。列車最後尾の車掌室に接している座席、一番端に座っている小柄な姿はここしばらくで見覚えのあるものになっている。
 昏々と眠っているのは、制服を着た女子高校生だ。よほど疲れているのか、ここしばらくの間で何度か終点についても眠り続ける彼女に声をかけて起こしている。少女は膝の上に参考書を開いていたり、時にノートを開き、シャーペンで問題を解いていたりしたその体勢のまま眠りに落ちている。
 斎藤はいつものように、少女に声をかけようかとその前に立ったが、一瞬の逡巡をおいて考えを改めた。
 ――すべて点検を済ませてきてからでも遅くはない。
 そう考えたのは何かの気まぐれだろうか。気持ち良さそうに眠る少女をもう少しだけでも長く眠らせてやりたかったのかもしれない。

 車内に忘れ物や不審物がないか、隙のない視線を巡らせながら、時折眠り続けている乗客に声をかけて起こす。網棚に残された新聞紙を回収し、ドアの脇に置かれた空き缶を拾い、すべての車両を見終えたところでいったん外に出てごみを捨てた。そしてもう一度最後尾の車両へ戻る。

 小柄な少女は目立たない隅でいまだすやすやと穏やかに寝息を立てていた。
「お客様、終点ですよ」
 眠る少女の肩にやんわりと触れて声をかける。
「ん…」
 むずがるように声を立てたあと、少女はゆっくりと瞼を開いていく。ぼんやりとした琥珀色が斎藤を映した。
「終点に着きましたよ」
 斎藤が言葉を重ねる。すると、ようやく意識が覚醒したらしい少女がわたわたと首を巡らせ、車窓から見える駅のホームを確認したかと思うと反射的に立ち上がった。と同時に、彼女の膝の上に置かれていたノートと数学の問題集、シャーペンがばさばさと床に落ちる。
 斎藤は落ちたノートと転がっていってしまったシャーペンを拾ってやると、問題集を取り上げた少女に渡してやった。
「そう慌てずとも大丈夫ですから、落ち着いて鞄にしまってから降りればいいですよ」
 動揺も露わに、しきりにすいません、と重ねる少女を前に微苦笑を浮かべた。普段は決して言葉数が多い自分ではないのに、気づけば言葉を継いでいる。
「いつも頑張っているのだな」
 無意識にこぼした呟きは、目の前の少女にも聞こえたようで、「え…?」と自分を見上げる瞳と目があった。
「ここしばらくで何度か見かけましたが、いつも勉強されてますね」
「あ…いつも声をかけてくださる車掌さん…ですか…?すいません、いつも寝ぼけていて、お礼も言わずに。ありがとうございます。私、電車で勉強すると短時間でも集中できるからよくしているんですけど、ここのところいつも揺られていると眠くなってしまって…ダメですね。テスト前なのに」
「家で頑張っているからなのでは?短時間の睡眠は頭がすっきりしますから寝るのは構わないと思いますよ」
「そう…ですか?じゃあ、また帰ってから頑張ります!ありがとうございました」
 すべてを鞄にしまい終えた少女は、ぺこりと丁寧にお辞儀をしてホームへ出ていった。小柄な背中が見えなくなるのを待って、斎藤は再び業務に戻った。


 その次の日。
 いつもと同じ時刻の列車が始発駅のホームに滑り込み、扉を開くと乗客が乗り込んでくる。
 見るともなしに見ていると、ガラス越しに目があった。――昨日の少女だ。
 彼女は、いつも座っている車掌室側の座席前に立つと、にこりと微笑み目礼をよこしてから席に腰を下ろしたようだった。
 電車がゆっくりと動き出し、車内放送を入れる。ガタン、ゴトン。身に馴染んだ揺れの中、車掌室での作業を置き、車内を巡回するために客席側へ出た。
 ちらりと左側に視線をやれば、熱心にノートに数式を書いている少女の姿がある。
(今日も頑張っているのだな…)
 知れず、心和んで僅かに目元が緩んだが、すぐに前を向いて一両ずつ車内をまわり仕事をこなした。一通り巡回を終えて戻ると、丁度問題集から顔を上げた少女の口元が声もなく「あ」と形作り、軽く頭を下げた。斎藤もまた、それに応えて目礼を返すと、車掌室に戻った。

 終点に着き、車掌室から出ると、他の客はほとんど下車済みのがらんとした車内でシャーペンを筆箱にしまい、ノートと共にカバンに詰めようとしている少女の姿があった。
  がちゃり、とたてた音に応じて顔を上げた彼女と目があった。
「…今日は起きていたんですね」
「はいっ!数学の宿題がほとんどできました!」
「そうですか」
 にこにこと嬉しそうに話す少女に、気づけば「頑張ってくださいね」と告げており、彼女は「はい!ありがとうございます」と今日も丁寧にお辞儀をして車両から降りて行った。


*   *   *


 始まりは電車の規則的な揺れが好きだった、ただそれだけのことだった。空調設備の整った環境、隅の席は落ち着いた。そんな中、ゆるやかに揺れる車内で勉強をし、いつの間にか意識を手放す。それはとても心地良い眠りだった。

『お客様、終点ですよ』
 低く響く声は耳に馴染んでずっと聞いていたい。まどろみの中、聞こえる音を遠くに聞いていた千鶴は、肩をやんわりと揺する手にようやく意識を浮上させた。
『ん…』
『終点に着きましたよ』

 あの日、落としてしまったノートを拾ってくれたのは、それまでにも何度か寝過ごしてしまった千鶴を起こしてくれた人だったのだと知った。いつも、起こされると慌てて下車することに精一杯だったため、きちんと礼を述べることも、相手の顔を見ることもなかった。けれど。
『いつも頑張っているのだな』
 独り言のように呟かれた声は、とても柔らかな響きで。いつも、まどろみの中に心地よく響いていた音と同じだった。

 以来、顔を合わせればガラス越しに目礼をするようになった。いつもの時間の電車でないときも、車内放送の声についつい耳を傾けてしまう。
 『頑張っているのだな』と。その言葉が嬉しかったから、千鶴はテストが終わるまでの毎日、どんなに揺れが心地良かろうと、どんなに暖かい空気に包まれようと、決して寝てしまわないよう必死に勉強した。終点で車掌室から出てきた彼と少ないながらも交わせるようになった会話が楽しみで、他の乗客が下車するのを横目にゆっくりと膝の上に広げていた勉強道具を片付けていることにも自覚はあった。
 言葉を交わせるだけで、こんなにも千鶴をしあわせな気持ちにしてくれるなんて、彼は魔法使いのよう。


 そして五日間にわたる期末テストを終えた最終日。
 千鶴は、さっそく山のように出された冬休みの課題を放課後の図書室でやってからいつもの時間に学校を後にした。
 本格的な冬の冷たい風がホームに吹き込んでくる。ぐるぐるにまいたマフラーが風に煽られないよう、両端を手に持って待っているとホームに電車が入ってきた。扉が開くと、待ちかねたように人々が車両の中へ逃げ込んでいく。
 千鶴も波に乗って車内へ入ると、すっかり定位置になった座席へ向かった。今日も彼と視線が合ったことが嬉しくてにっこり笑ってから座席に腰を下ろす。足元から噴き出る温風が心地良くこわばった体を温めていく。
 発車時刻待ちの間、ホームを行き交う人々を見るともなしに見ていたが、良い具合に体が温まってきたところでごそごそと鞄から教科書と筆箱を出した。「テストの終わった当日ぐらい勉強しなくてもいいじゃん」と放課後、図書室に行こうとした千鶴にかけられた友人の声がよみがえる。けれど、もう習慣なのだ。電車に乗って、いつもの席に座って、勉強道具を開く。
 疲れた頭にチョコレートを一つ口に含むと、意識を教科書の上の漢文へ移していった。

 ガタンゴトン。ガタンゴトン。
 規則正しく響く揺れ。心地良い暖かさ。
 いつの間にか、千鶴の意識は混濁していた。

「終点ですよ」
 遠くで響く声さえも、千鶴のまどろみを促す子守歌のようで。やさしい響きをずっと聞いていたい。そんな気持ちさえして意識はゆらゆらと漂い続けていた。
「――雪村、千鶴さん…?」
 肩を揺すられ、声が千鶴の名を呼んだ。
 ここに至ってようやく重たい瞼を開いた千鶴は、目の前に映り込んだ藍色に激しく動揺した。
「…っ!?」
 条件反射で立ち上がった千鶴は、一刹那ののちにガチャガチャ、と音を立てて膝の上から落ちた筆箱とその中身、教科書を前にふわふわと揺れる意識をようやく定めた。
 いつかも見たような光景。知らぬうちに眠ってしまっていたことを自覚した千鶴は、慌てて落ちた物を拾うために腰を折った。その横で、車掌の制服を着た彼もまた細々としたペン類を拾ってくれている。
「すまない。突然名を呼ぶのは不躾だっただろうか…。教科書に書かれていたのが見えたのでな」
 言われて初めて、千鶴は夢現に聞いた己の名が、まさしく目の前の人によって紡がれたものなのだと知って赤面した。
「あ、あの…こちらこそすいません。いつの間にかよく寝てしまっていたみたいで…」
「いや。疲れているのだろう。――テストは終わったのか?」
「はい、今日で終わりです。精一杯答案用紙を埋めてきました」
「そうか」
 目を細めた彼が、とても柔らかい表情で笑った。
 拾ったシャーペンやカラーペンを差し出してきた手は、汚れのない真っ白な手袋をはめている。落ち着きのない心臓に震えそうな手を伸ばし、受け取ろうとしたそのとき。
 微かに。
 ほんの微かにだが、指先が触れあった。
 手袋越しのはずなのに、温もりを感じた気がして、千鶴は慌てて手を引っ込める。
「あの!ありがとうございました!」
 ペン類を筆箱にしまい、鞄に入れ終わるとホームへ出ようとした千鶴の手首が淡い温もりに引き止められた。
「――こちらだけ名を知っているのは不平等だろう。俺は斎藤一だ」
「さい…とうさん、」
「そうだ」
 千鶴が名を呼ぶと、藍色の瞳が柔らかさを帯びて千鶴を見た。
 そして――。

 はた、と千鶴の手首を掴んでいたことに気づいたらしい斎藤は、普段の彼らしくない動揺を見せて手を離した。
「す、すまな…」
 そう言いかけたところで、慌てて「申し訳ありません」と言葉をただした。どうやら、今日の砕けた口調は無意識の産物だったようだ。しかし、千鶴は美しく並べられた敬語に寂しさを感じてしまう。
「………私、は…斎藤さんよりもずっと年下ですし…あの、よかったら、さっきまでみたいに気安く話してもらえませんか…?」
 ためらいがちに、それでも最後はしっかりと斎藤の目を見て口にした言葉に、彼は一瞬目を見開いたが、しばしの沈黙ののち、「わかった」と答えてくれた。
「ありがとうございます、斎藤さん!」
 嬉しさのあまり、勢いよくお辞儀をすると、今度こそ千鶴はホームに足をつけた。途端にマフラーを巻きあげる風は冷たかったが、そんなことは全く気にならない。熱く火照った頬に風を受けて千鶴はホームを駆けた。
(明日はどんなお話しできるかな…!!)
 ささやかなしあわせは、未来へ続いてゆく。



(2010.12.19)
ついったネタからサルベージ。参考書拾うネタをくださったみすみんに押しつけ隊士!!ありがとうございました!*^▽^* 秋穂もゆ@TSUYU
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