「京の冬は冷える。……こんなものでもないよりはマシだろう」
 差し出されたのは墨色の羽織。今後の処遇が不透明な中にあって、与えられたそれはないはずの人肌のぬくもりに似ている気がした。




孤独の鳴り響く夜だから





 雪降る夜、真っ赤な瞳が刃を振りかぶって迫ってきた恐怖が忘れられない。
 夜の濃い闇の中に一人でいると、あのときの残像が音もなく這い寄ってくる気がした。
 ――闇が怖い。
 羅刹がいつまたやって来るかわからない。いつ殺されてもおかしくない。そんな状況下で、たったひとり部屋にいると行燈のあかりを消すのが恐ろしい。だから、千鶴はなかなか灯を消せないまま、床に入っていた。
 千鶴には監視がついているはずだったが、気配を消すことを得手とする彼らの動向は全く分からない。静まり返る夜にたった一人、自分だけが残されているような。小さな物音は反対に見えない恐怖を否が応でもあおってしまう。
(早く…早く朝が来ればいいのに…!)
 遠のかない意識を持て余し、夜が更けてもごそごそしていると、障子戸越しに衣擦れの音が聞こえた。
 咄嗟に身を固くして、全神経を薄い障子戸の向こうへ傾ける。
「…眠れぬのか」
 落ち着いた声が問うた。
「は、はい…。なんだか、真っ暗な中で一人でいると…いろいろ、思い出してしまって…」
 障子戸の向こうにいる監視者が斎藤であることに気づき、千鶴は肩の力を抜いた。彼は、数日前に千鶴を気遣って羽織を与えてくれた。おそらくは彼の私物だったのだろうそれは、寒さと、それから鳴り響くような孤独も和らげてくれた。こんな、明日の命も知れぬ身を気遣ってくれるひとがいるのだと。
 千鶴は床を出ると、枕元に畳んでおいてあった墨染めの羽織に袖を通し、そろりと障子戸に近寄った。ゆっくりと戸を開けると、冷たい空気がすーっと入ってくる。
「斎藤…さん、」
 声をかければ、視線がよこされる。
 千鶴の発する声は、きちんとこのひとに届いている。
 室内に入り込んだ冷たい風に、ゆらりと行燈の灯が揺れた。
「…外に出ては冷える」
 油断なく手元に刀を置いたまま、正座をしている斎藤が眉をひそめた。
「私は大丈夫です。斎藤さんが下さった羽織もありますし…。斎藤さんこそ、ずっとそんな薄着で外にいらっしゃったんですか!?…もしかして、これを私に下さったから……」
 千鶴が身に着けていた羽織を脱ごうとするのを斎藤がおしとどめる。
「それは、もともと滅多に使うことがなかったゆえ、あんたが使ったほうが有用だろうと思いあんたに渡したのだ。要らぬ勘繰りはするな」
「でも…」
 夜の冷え込みは厳しいというのに、斎藤は昼間と変わらぬ出で立ちで座っている。そんなことをしていては、自ら風邪をひこうとしているようなものだ。医者の娘という育ちもあって、千鶴には見過ごすことができない。
 一瞬の躊躇いを腹に力を入れることで抑え込み、手早く羽織を脱いだ。
「お仕事をきちんとされるために、体調を崩す恐れのあることは避けたほうが良いと思います。夜の監視の間だけ、これを使ってください」
 一息に言い切ると、有無を言わさず斎藤の肩に羽織をかけた。突き返されるのが怖くて、「では、おやすみなさいませ」と障子戸を閉めて部屋に戻る。床に入ってしばらく外の様子を窺っていると、小さく押し殺した声が「…あたたかい。感謝する」と紡いだから、嬉しくなって「よかったです」とだけ返して行燈の灯を消した。
 その夜は、不思議と穏やかな気持ちで眠りに落ちることができた。朝、目覚めたときには障子戸の近くにきれいに畳まれた羽織が置かれていた。

 以来、斎藤が夜の巡察でない日には、千鶴が眠る頃合いに監視にやってきて、千鶴の羽織を身に帯びて部屋の前に座り、いくらか障子戸越しに言葉を交わし、千鶴が行燈のあかりを消すのを確認するのが日課になった。
 そんな日々が続いていくのだと、信じて疑っていなかった。


 慶応3年3月。
「そういえば、もうすぐ桜が咲きそうなんです。蕾がほころびかけていました」
「…もう、そんな季節か」
「はい…。もう、ここで見る桜も四度目になります」
 西本願寺に移転してからあったさまざまな出来事が束の間脳裏に閃いては消えてゆく。
 相変わらず障子戸の向こうにいるのであろう斎藤と言葉を交わす習慣は続いていた。千鶴はもう闇に潜む羅刹の影におびえてはいない。いつも少しだけ前を歩く墨染めの背中が心強い拠り所になっていた。千鶴の眠りを守ってくれるひと。こころを守ってくれるひと。
(斎藤さんがいてくれるだけで、)
 それだけで、闇さえもあなたの纏う慕わしき色になる――。

 とりとめのない話をして、灯を消して眠りについた。それから数刻後。
 静まり返る屯所は眠りの中にあった。千鶴は厠に行こうと、そっと身を起こす。すーっと障子戸を引けば、どんなときも眠っている姿を見せたことのない斎藤が、身動きすることなく瞑目している。ここのところ、斎藤は伊東一派の者たちと行動を共にしていることが多いようだった。伊東に伴われ、島原に繰り出したことも一度や二度ではない。斎藤のことだから、任務なのだろう。疲れているのに、用がなければ必ず千鶴の許を訪れてくれるその気遣いが胸の奥にじわりと広がった。
 相変わらず刀を手元に持ったまま、姿勢を崩すこともなく眠りに落ちている斎藤を見て、千鶴はずっと前に仕立てたまま、渡す機会を失っていた、闇の色をした羽織を斎藤の足元へ掛けた。
 肩から羽織っているのは千鶴が貰い受けたもの。そして彼の膝元をあたためるのは千鶴が仕立てた感謝の気持ち。
「いつもありがとうございます…斎藤さん」
 囁き、隣に座って空を見上げた。西に傾きつつある月は薄い雲の向こう、朧に光を放っている。見えにくいけれど確かにある、それは斎藤のやさしさに似ていると思った。

 それから一週間ほど後のことだった。千鶴が再び羅刹の恐怖に身をさらされ、怪我を負ったのは。
 血で汚れてしまった自室の代わりにあてがわれた土方の私室で眠れぬ夜を過ごす。屯所は一晩中慌ただしい気配に満たされていた。斎藤は来ない。彼も任務で忙しいに違いなかった。
(明日になったら…きっと会える、よね?)
 根拠のない胸騒ぎを抑えて瞼を閉ざした。

 先日まで蕾だった花が今を盛りと咲き乱れる桜の木の下、別れは突然やって来た。
「時代の移り変わりとともに変わるものもあれば、変わらないものもある。そして俺は……変わらないものをこそ、信じている」
 その言葉と、ほのかな微笑みと…桜の花びらだけを残して、彼は去っていってしまった。
 斎藤のいう「変わらないもの」が何なのか、千鶴にはよくわからない。ただ、「変わらない」と思っていた、斎藤との夜のひと時が失われてしまったのだと、それだけは骨身に沁みて理解した。
 彼が守ってくれた千鶴の夜はもはやない。
 再び羅刹に襲われるかもしれないことよりも、もう声の届く障子戸越しに彼がいないことが――恐ろしかった。「独り」残された音のない夜、孤独と寂寥が耳鳴りのように響く。
「斎藤さん…」
 夜の間だけ千鶴の手元を離れていたはずの羽織は、持ち主の手元を離れぬままに春を、そして夏と秋を越していった。


 そして――明治4年春。
「一さん…?」
 湯上がりの千鶴が寝室に入ろうとしたところ、濡れ縁に腰かけて舟をこいでいる斎藤が目に入った。きっと夜桜を見ているうちに眠ってしまったのだろう。
 千鶴は、行李から二枚の黒羽織を取りだし、一枚を夫に、そしてもう一枚を自分の肩に羽織った。京より持ってきた思い出の品に、綿を詰めてあたたかくしたものだ。斗南の寒さは骨身に沁みる。
 桜の季節とはいえ、外で転寝するにはまだ早すぎる。
「一さん、起きてください。一さん!」
 滅多に人前で眠らなかった斎藤が、こんなにも無防備に寝顔をさらしている。
 どんなときも手放さなかった大小を身近に置くこともなく眠っている。
 それは、とりもなおさず、千鶴に許した彼の心の表れなのだ。
 そのことに気づいた千鶴は、言い知れぬ感慨を覚えて肩を揺する手を止めた。
 いつかの夜、初めて斎藤の眠る姿を見たのを思い出す。隣に並んで、月の光を受けて白く浮かび上がる夜桜を見つめた。
 もう、ふたりの夜を脅かすものはない。
 鳴り響く孤独の音もしない。
 ただ、ふたりで、この墨染めの世界の中、穏やかな夢にたゆたえばいい――。

 千鶴は、斎藤の肩にそっと頭を載せて瞼を閉ざした。引き寄せられた肩がぬくもりに包まれ、知らず、口元に笑みを浮かべて。



(2010.12.05//レテの涙
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