その心の穢れなきこと、泥に根を張りながら、匂やかな蓮のごとく。




泥中の蓮





 池田屋事件を経、以前に比べて幹部たちの千鶴に対する態度は軟化していた。
 件の池田屋事件の折、千鶴は山南の命の下、過激派浪士たちの会合場所が四国屋ではなく、池田屋であることを四国屋前に詰めていた土方たちに伝令するという役目を果たしていた。
 土方が体を張って守った「新選組の手柄」は京の空にはためく「誠」の文字を周囲に知らしめた。その陰には、千鶴がひたすらに駆けて伝令を果たした努力があったのだ。

 池田屋事件では、先に斬り込んでいた近藤等が獅子奮迅の活躍をして勝利を手にしていたが、新選組の隊士たちが無傷で済んだわけではない。重傷を負った沖田や平助の他にも、多くのものが負傷していた。浅葱色の羽織には返り血とも自らの血とも判別のつかない血痕やほつれ、破れ目などが残され、近頃の千鶴はそれらの洗濯や修繕に没頭していた。

 まずは時が経つほどに取れにくくなる血痕のしみ抜きに勤しみ、今は十分に日の下で乾かしたそれらを自室に持ち込んで裁縫針を手にひとつひとつ繕っているところだ。
 浅葱の羽織は、それを身にまとう彼らの信念と覚悟を示している。彼らの信念や覚悟に一点の曇りもないことをこの半年ほどの間で知った千鶴は、だからこそそれを形あるものとして示す羽織も完璧な状態を保っていてほしいと思うのだ。


「雪村、いるか」
 障子戸の向こうからかかった声に、千鶴は針を進める手を止めた。
「はい、いますけど…」
 すると、開けるぞ、と声をかけてから斎藤が戸を開ける。薄暮の空は蒼を残しながらも雲が鴇(とき)色に染まっている。やや逆光になっていて表情の見えない斎藤は、戸に手をかけたまま千鶴の手元を片時ばかり見つめていた。
「…えっと、何かご用でしょうか?」
 斎藤がいるのに無視して裁縫を進めるわけにもいかず、かといって斎藤が用件を口にする様子もなく見つめられては居た堪れなくなって千鶴が口を開くと、斎藤は漸く視線を千鶴の手元から外した。
「……あんたは裁縫が好きなのか」
「特別好きというわけではないですが、幼い頃からしていますから慣れてはいます。やることがあるのは手持ち無沙汰なままよりずっと良いですし…」
「そうか…」
 いつからか幹部たちに代わって裁縫を千鶴が一手に引き受けていることは知っていた。しかし、斎藤はあくまでも「客分」として預かっている娘に自身のことで手を煩わせることを是としなかったため、以前と変わらず自身のことは自身でこなしていた。
 己のことは己でなす。それが当然のことだという考えは、ひとりで生きてきた斎藤にとってあまりにも身にしみついた習慣であり信念であった。それを翻すつもりはなかったが、池田屋事件の事後処理に忙殺されて放置してしまっていた羽織を見つけた千鶴が気づかぬ間に洗濯し、繕ったそれを手に斎藤の元へ訪れたのが今朝のこと。
 放置されていた分、落ちにくかっただろう汚れの痕は跡形もなく洗い落とされ、羽織ればほのかに陽の香りがした。腰の大小に触れることで擦り切れていた右側の裾も丁寧に繕われた羽織は、斎藤では手がまわらないような細かなところまで行き届いた気遣いが感じられた。斎藤の信じる新選組の武士としての誇りを千鶴が大切にしてくれているのだと、その心持ちを知ってあたたかなものが胸を満たしたのは錯覚ではないだろう。
 新選組に出遭ってしまわなければ、千鶴はこんな血なまぐさい羽織を何十枚と洗濯し、繕うことなどなく生きていただろう。それこそ、家族の服を洗い、食事を作り、掃除をして談笑する。そんな平和な日常が続いていたのだろう。彼女は、どこにでもいるただの娘なのだから。
 なのに、そんな平穏を奪った新選組のために懸命にできることをなそうとする千鶴のなんと強いことか。

「あんたは、血が…血にまみれた俺たちが怖くはないのか」
 気づいた時には、思ったことを口にしていた。手を止めたままの千鶴が斎藤を見る眼が一瞬揺らいだ。
「……怖くない…といったら嘘になります。確かに、人の命を奪うために刀を振るい、誰かを傷つけるのは怖いことだと思います。でも…皆さんが刀を振るうのは決して私欲のためじゃないということはわかっています。だから、私が過ちを犯さない限りはこうして生かしてもらっています。なら、命を救ってもらった私が皆さんを恐れるいわれはないんじゃないでしょうか。…おこがましいようですが、私は私なりに皆さんの信じているものを守りたいと…今はそう思っています」
 背筋をまっすぐに伸ばした千鶴は迷いのない瞳を斎藤に向けて言い切る。凛と通る声は力強ささえ感じて、斎藤はひそかに息を呑んだ。血濡れの男たちに囲まれていても全く曇ることのない澄んだ玻璃のような千鶴。それは泥の中にあっても穢れなき花を水面に浮かべる蓮のような気高いうつくしさだった。
「俺たちの信じているもの…か」
 斎藤は、朝からの巡察で羽織った隊服を思い出して口元を緩める。
「あんたのおかげで気持ち良く巡察に向かうことができた。…礼を言う」
「私の…って、今朝の羽織のことでしょうか?」
「ああ」
「そんな…拙い仕事でお恥ずかしいです…」
 先程まで纏っていた凛とした雰囲気はたちまち鳴りを潜め、所在なさげに手元の浅葱を弄る姿は普段の千鶴らしくて、思わず息を漏らした。
「謙遜するな。…できれば、今後もあんたに衣服の修繕を頼みたいのだが…良いだろうか」
 その言葉に、千鶴は目を大きく見開いたかと思うと、花の綻ぶように華やかな面持ちを見せて笑った。
「はいっ!!もちろんです!!」
 喜色も露わに向けられた表情に、束の間息をすることを忘れていると、ばたばたと廊下を走ってくる音が聞こえた。
「一くーん!千鶴ー!早く来いよ!いつまでたっても飯食えないんだけど!」

 平助の声に我に返った斎藤は、ようやく当初千鶴の部屋を訪れた目的を思い出したのだった。
「…夕餉の支度ができたようだな」
「そうですね」
 裁縫用具を手早く片付けた千鶴は、手にしていた隊服を丁寧に畳むと文机の上にそっと置いた。斎藤は目を細めてその仕草を見守る。
「いきましょうか」
「…ああ」
 立ち上がった千鶴が斎藤の横まで来ると静かに障子戸を閉める。
「ったく、一くん千鶴を呼びに行くのにどんだけかかってんだよー!もう腹ペコなんだけど!」
「すまん、平助」
「お待たせしちゃったみたいでごめんね、平助くん」
「いや、別に千鶴のせいじゃないんだけどさー。とにかく!早く行こうぜ!」
「う、うん!」
 平助に手を引かれて先を行く千鶴が、顔だけ振り返って斎藤を見た。無言で頷くと、ふたりの後を追って広間へと足を向ける。


 屯所での平穏が束の間だとしても、こうして生活を共にしている限り、彼女が新選組の掲げる信念を守ろうとしてくれる限り、血濡れたこの手であっても、穢れぬ花を守ることは赦されているのだろう。気高く咲く蓮の花は泥に塗れぬものであるがゆえに。



(2010.11.05)
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