いつからだろう。気づけば視界に映る夜の色。




導きの背を追って





 元治2年3月10日。羅刹化した山南を伊東派から隠すために断行された屯所の移転先は、浄土真宗本願寺派本山の西本願寺だった。京の民には「お西さん」の愛称で親しまれ、長州贔屓の気があった西本願寺に強引に移転したのだから、どうなることかと心配されたが、疎んじられつつもなんとか新しい生活が始まっている。
 千鶴にとっての目下の問題は、僧侶たちの反応よりもむしろその広大な敷地だった。これまでの八木邸とは一線を画するその広さのため、ぼーっと歩いていると迷ってしまう。
 山南に食事を持っていったり土方のもとへ茶を持っていったり。細かな雑用をするためには屯所内の地理を把握する必要があった。特別物覚えが悪いわけではないが、似たような景色の建物の廊下をぐるぐるとまわっていると今自分がどこにいるのかが分からなくなってしまうのだ。

 そして今、千鶴はその手に茶を持って廊下を歩いていた。
 目的地は土方の部屋。広間で食事をとった後、一刻ほどのちに茶を持ってきてほしいと頼まれていたからなのたが、ふと視界の端をよぎった薄桃色に意識を取られて立ち止まってしまう。
「もう桜の季節なんだ…」
 西本願寺の境内には立派な桜が植えられている。五分咲きのそれはもうしばらくすれば見事な満開を迎えるだろう。ほぅ…と見惚れていると、時間を忘れてしまいそうだ。
 境内にこんなに立派な桜があるのだから、満開になったときはみんなでお花見ができればいいのにな。そんな考えごとから意識が浮上して、慌てて仕事に戻ろうとしたときには、今の自分の現在地を忘れてしまっていた。
(あ、あれ?今どこの角を何回曲がったんだっけ!?)
「どどど、どうしよう…!!お茶も冷めちゃう…!!」
 とりあえず、足を進めてみることにした。もしかしたら誰かに行きあうかもしれない。

 茶をこぼさないように、しかし急ぎ足で歩いていると、前方の右の角から人が曲がってきた。
 ぶつからないように止まって先を見ると、そこには黒い着流し姿の斎藤がいる。
「斎藤さん!」
「…千鶴。茶を持っていくのか。ご苦労だな」
「いえ。…あのぅ、お聞きしたいんですが、土方さんのお部屋ってどちらでしたっけ…?ぼーっとしていたら迷ってしまって…」
「そうか。副長のお部屋はこっちではない。俺も今から副長のところへ行く予定だったゆえ、共に来るといい」
「ありがとうございます…!!」
 先導するように歩き出した斎藤の背中を追う。茶を持っている千鶴を気遣ってか、その足取りは緩やかだ。
「初めて屯所の中を歩いたとき、前の八木邸でも広いなぁと思いましたけど、ここはまた桁違いの広さですね」
「そうだな。稽古するのに境内も広く、隊士たちの部屋も以前に比べれば随分余裕が出た」
「隊士さんたちのお部屋が増えたのはよかったです。私なんかが個室をいただいているのは心苦しかったので…」 
「あんたは女なのだから雑魚寝するわけにはいくまい。気にするな」
「そう…ですね」
 斎藤のいうことは正しい。しかし、それは千鶴が女だと知っていて初めて成り立つ論理だ。平隊士たちは千鶴を男だと思っているのだから、納得できないだろう。とはいえ、今更どうこうできる問題でもないのだから、割り切るしかない。
 千鶴の思い込みかもしれないが、重くなった雰囲気を変えるべく、努めて明るい声で話題を変えた。
「そういえば、先程、境内の桜が咲き始めているのに気づきました。満開になったらすごくきれいだろうなって楽しみになりました!」
「そうか」
「皆さんでお花見できたらいいですよね。折角こんな近くに立派な桜の木があるんですし」
「新八あたりが花見を理由に宴会を始めそうだな」
「ふふ、そうですね。平助くん…はまだ江戸ですけど、原田さんと一緒に夜桜の下で宴会をされそうです」
「――着いたぞ」

 「副長、斎藤です」と声をかけると中から応えがあり、障子戸を開けて入っていく。千鶴も後から入ろうとしたところで、すっかり茶が冷めてしまっていることに気づいた。
「あの…すいません。お茶をお持ちしたんですが、迷っている間に冷めてしまったので、もう一度淹れなおしてきます。斎藤さんの分も一緒にお持ちしますので、少しお待ちいただけますか?」
「千鶴、おめぇ遅いと思ったら迷ってやがったのか…。淹れなおすのはかまわねぇが、今度は迷わねぇか?」
「はい、ちゃんと考えながら歩けば大丈夫…なはずです」
「はず…ねぇ…。すまねぇが、斎藤。こいつがしっかりここの位置を覚えるように案内してやってくれねぇか」
「え…!?そ、そんな、大丈夫です!」
「茶は熱いのに限るからな。まずは厨とここの最短経路だ。いいな?斎藤」
「御意。――千鶴、行くぞ」
 千鶴が反論する間もなく、すっと立ち上がった斎藤が廊下を進んでいくので、慌てて後ろを追いかけるのだった。
「お忙しいのにすいません…」
「副長の命令だ。気にするな。それよりも、しっかり見ておけ。まずは一つ目の角を右に曲がる。ここは平助の私室だ。それから――」
 続く斎藤の言を必死に脳に刻み込んだ。


 翌日。
 朝餉を終え、山南のところへ持っていく食事を整えて厨を出た千鶴は、目の前にできた影に視線を上げた。
「斎藤さん…?」
「山南総長のところへ持っていくのか」
「はい、そうですけど…」
 頷く千鶴に、斎藤はその手から膳を取り上げると踵を返した。
「え?」
「…また迷っていては飯が冷める。ついて来い」
 咄嗟に状況を飲み込めずに瞼をぱちぱちとしていると、斎藤はさっさと先に行ってしまう。
(なんだか、斎藤さんの背中ばかり追ってる気がするな…)
 一年程前、池田屋事件のあった折にも彼は言ったのだ。
『俺の前には出るな。戦うにも守るにも、邪魔なだけだ』
 戦いの最中はもちろん、こうやって些細な日々の生活の中でも千鶴を気遣い助けてくれるその背中。気づけばいつだってその背中が視界にある。近くて遠いその背中。並ぶことはできないけれど、できることならずっと見失いたくないと思う。

「千鶴、何をしている。早く来い」
「はいっ!!」

 精一杯、許されている限りは追いかけ続けていたいから。



(2010.09.20)
史実では西本願寺の境内の中の北集会所(600畳余り)と太鼓楼の周辺を竹矢来で囲んで屯所としていたようなので、迷うとしたら境内というよりは集会所内でかな?
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