ただただ、彼女の待つ場所を求めて足は進み続けた。
(――ちづ、る…)




まるで帰巣本能





 慶応4年、9月22日に会津藩が新政府軍に降伏しても尚、ひたすらに刀を振るい続けた斎藤だったが、ついに松平容保からの使者が説得に派遣されるに及んでようやく投降に応じた。斎藤が千鶴と共に会津に残留することを決めてからわずか2か月余り後のことだった。
 謹慎を言い渡された会津藩士たちに従う斎藤は、それまで己の体を盾にして守り抜いてきた娘を前に静かに決意を告げようとしていた。

「千鶴、お前は会津藩士ではない」
「……はい」
「俺はこれから謹慎に服さねばならん。期間がいつまでなのかもわからん。会津は特に、政府軍からは目の敵にされている。それゆえ――」
(再び生きて陽の目を見ることが叶うかどうかもわからん。そんな俺を待つ必要は、ない)
 斎藤が言葉を飲み込むと、鋭く察した千鶴の目が曇った。
「私っ、私は…お待ちしています…!どんなに時間がかかっても、ずっと斎藤さんが帰られるのをお待ちしています。……私には、もう身寄りがありません。あなただけ、なんです。あなたしか…っ」
 ――身寄りがない。
 その言葉に、斎藤は言葉に詰まった。千鶴を風間千景の嫁とするためだけに養い育ててきたといった綱道は、直接見届けたわけではないものの、白河城で平助の手によって斃れていた。綱道を追って京に到り、新選組預かりとなった千鶴の養父を斃したのが新選組の仲間だという事実。皮肉なことこの上ない。たとえ、千鶴が新選組に身を寄せておらずとも、いずれは綱道の真実を知るときが来たであろうことを考えれば、真の「独り」にならなかったことは幸運なのかもしれないが、たやすく割り切れることでもなかった。

「……お前はまだ若い。いかようにでも、新たな生き方を選ぶことはできる。それこそ、俺のようにいつ戻るかも、そして、戻ったとして、いつ灰となるとも知れぬ男より、長くお前と共に生きられる者はいくらでもいるだろう」
「私は、斎藤さんと会津に残ると決めた時点で、もうあなた以外の選択肢なんて捨ててきました。最後まであなたのお傍にいたい、とあのとき言った言葉は今も変わりません。そして、斎藤さんは、私を死なせたくないと言ってくださいました。なら、傲慢だと笑ってくださってもいいです。私のために、生きて、私のところへ帰ってきてはくださいませんか…?」
 深い藍色の双眸を逸らすことなく見つめて懇願する。かつて会津の地で、魂から口にした言葉が通じたように、今一度この心を聞き届けてほしい。視界がぼやけるまで、瞬きすら忘れて彼の瞳に訴えかけた。

 長く、無言の応酬が行き交う。そして。
「――お前のために生き、お前の元へ帰る…か。それも悪くはない、な」
 根負けしたようにふっと笑った斎藤が千鶴の目元にたまった雫を指で拭い取った。
「斎藤さん…!!」
「お前もなかなかの頑固者だな」
「っ、はい、そうなんです。私は頑固ですからね、覚悟してください…!」
 泣き笑いで告げる千鶴と抱擁を交わし、彼女からは羅刹の吸血衝動を抑える薬だからと、桜色の手拭いに包んだそれを渡された。
 どこまで抑えられるかはわからないが、千鶴がともにいない以上、供血に頼らず発作をやり過ごさざるを得ない。祈るような仕草で握らされたそれを懐にしまい、千鶴の目をまっすぐに見据えた。
「――必ず、戻る。千鶴も無事で待っていてくれ」
「はい…!必ず!!どうぞ、お身体にお気をつけて」
 丁寧に腰を折った千鶴に頷き、身を翻した。




 その後、越後高田での謹慎生活は約一年半に及んだ。明治政府から支給される物資はごく僅かなもので、生活は困窮を極めた。病没者や脱走者が絶えない中、時折訪れる発作とも闘いながら斎藤は懸命に生き抜いた。
 ――千鶴のために生き、千鶴の元へ帰る。ただただそれだけを念じて。

 そして、明治2年9月28日。旧会津藩主松平容保親子および家老格の者を除いて罪が許され、次いで11月には松平家の再興とともに、斗南改易が決定された。謹慎生活に終止符が打たれたときには、もはや発作を抑える薬に効果はなく、満足な食事もとれない日々の中で斎藤の体力は限界まですり減っていた。
 謹慎していた寺から外へ出た斎藤は緩慢な動作で空を見上げた。
(長かった…)
 茜色に染まる雲。そよりと吹く風。
 謹慎中、まったく屋外に出られなかったわけではなかったが、肺を満たす空気が新鮮な気がした。

 しばし、立ち尽くしていた斎藤だったが、やがてのろのろと足を進めだした。一年と半年前、千鶴の身柄は近くの村のとある家族の元へ預けていった。ひどく昔のことのように思われるが、足はしっかりと道を覚えているようで、頼りない足取りながらまっすぐに歩き続ける。

 じゃり、じゃり。
 土を踏みしめる音と自身の息遣いだけが鼓膜を震わせる。
 半刻ばかり足を動かし続け、ようやく辿り着いた見覚えのある家屋の前で、ついに斎藤の視界は暗転した。急速に力が抜け、膝を折った彼の耳に、パタパタと軽やかな足音が聞こえ。
「――さい、とう…さん…!?」
 懐かしく、いとおしい声が届いた気が、した。



 家の前で音がした気がして、戸口の外へ走り出た千鶴は、そこに倒れこむ人影が自分の待ち続けたひとであることに気づいた。信じられない思いで一度目をこすり。それから現実であることを認めると、慌てて家の中に戻って家人を呼んだ。手伝ってもらって家の中に運び込んだ斎藤は、しばらく見ない間に随分と痩せ衰えていたけれど、確かに呼吸をしていて、その手には――。

 あの日、千鶴が薬を包んで渡した桜色の手拭いを握りしめていた。

「…やっぱり、斎藤さんは立派な武士です。約束、きちんと守ってくださったんですね…」
 身体の限界にありながら、それでも千鶴の元へ生きて帰ってきてくれた。溢れ出る涙を左手で拭いながら、空いた右手で眠る斎藤の手を握りしめた。
「おかえりなさい、斎藤さん」



(2010.09.02)
史実では明治3年6月に斎藤さんは冬季陸行で斗南へ旅立ったとあったのですが、謹慎明けが罪の許された明治2年9月末なのか、斗南に出発する直前なのかが調べきれず、捏造設定です。
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