※もしも原作第一章のミケちよが凛々蝶の誕生日を平和に迎えていたら…という捏造話。





 僕が御狐神くんと交際を始めて最初の冬。「暮らしのにおい」がしない彼に和やかな時間をあげたいと、その願いはいつも胸にあった。相変わらず思ってもいない悪態をついてしまう癖は治らないけれど、それでも、どこか淋しげに笑う彼をひとりにしたくないと強く思うようになった。
 人前での食事を恥ずかしがる御狐神くんに、まずは一緒に飲み物を飲むようにしようと決めた。
 いつも僕の心身の状態に応じて出される紅茶を一緒に飲むようになった。と同時に、御狐神くんの私室におそろいのマグカップが並ぶようになった。
 最初は彼の部屋でふたりきりで過ごすことにとても緊張したけれど、その時間は徐々に長くなり、過度に緊張することもなくなっていた。彼の腕の中や膝の間に納まって、彼を間近に感じる時間は慣れてしまえばとても心地良い。
 そんな快い時間を重ねているうちに、気づけば暦の上では春を迎えていた。
 2月21日。凛々蝶16歳の誕生日である。

 昨年、御狐神くんの誕生日を祝うためにアルバイトをしようとしたが、その計画は本人との決闘の末、あえなく失敗に終わってしまった。そのため、特別に何かをプレゼントすることもできず、ただ一緒に過ごすことしかできなかったことが心残りになっていた。
 それなのに、彼は僕の誕生日にかこつけていつもよりも輪をかけて世話を焼き、甘やかそうとする。抗わずにリードされていれば、いつものように心地良い時間を過ごすことはできる。
 けれど、それではダメだ。
(もっと、しあわせそうに笑ってほしいんだ)
 僕のSSになって、付き合うようになって。彼が自嘲気味に笑うことは減ったと思う。僕の傍にいられてしあわせだと彼は言うけれど、それだけじゃダメだと思う。御狐神くんは、もっと欲をもっても良いと思うんだ。彼の言うよりももっともっと、大きなしあわせを望んでも良いはずなんだ。
 そんなことを伝えたいけれど、素直にそんなことが言える僕ではない。その自覚はあるから、強硬手段に出ることにした。

「み、御狐神くんはいつも僕を甘やかしてばかりだが、不平等だとは思わないのか?」
「不平等……とは?」
「たまには、その、君も僕に……甘える権利があってしかるべきだと思う」
「……僕が凛々蝶さまのお傍にあることを許していただける、この事実だけでも、十分に甘えさせていただいているのですよ」
「違うだろう、これは僕も望んだことだ! ……君は甘えるという言葉の意味も知らないのか? それなら、僕が教えてやってもいい。ちなみに、今日は僕の誕生日だからな。異論は認めない」
「……」
 黙してしまった御狐神くんの手を引いてソファの隣に座らせた。そこから更に肩を引いた。
 特に抗うこともなく、彼の身体が傾ぎ、その頭がとさりと僕の膝の上にのせられた。やわらかな髪が太腿に触れてどきりとする。横に倒しただけだから、顔は横を向いていて、前に流れた髪の間から、眼鏡のテンプル部分が耳にかけられているのが見えた。
 私室で過ごすとき、御狐神くんは眼鏡をしている。それは、普段よりも彼を知的に見せてくれるし、彼の「生活」の気配を感じさせてくれる気がして、僕は好きだ。
 御狐神くんは僕の膝の上で大人しくしているけれど、表情は見えない。いつもは見上げるばかりの彼を見下ろす光景は新鮮だが、目が見えないのは淋しいと思った。
 横向きに倒れている彼の右肩を手前へ引いた。すると、彼の上半身は仰向けになって、先程までは見えなかった表情が見える。
「凛々蝶さま……?」
 やや掠れた声が戸惑ったように僕の名を呼んだ。
 前髪をかき分けるように触れれば、露わになった瞳がまどろむように細められる。
「御狐神くん」
 名を呼べば、まっすぐに僕を見返す瞳。けれど、硝子が阻んでそこに映る自分の姿までは見えなかった。
 こんなにも近くにいるのに。硝子の阻む距離がもどかしかった。いつもは好きなはずの眼鏡の存在が疎ましくなった。
 そっと彼の頬を挟むように手をのばし、慎重に眼鏡をとった。瞳を伏せてそれに応じた彼は、完全に眼鏡を取ってしまうとまた目を開く。空よりも森よりも深いターコイズグリーンとくすんだ黄金色の瞳。いつもこの瞳で本当の僕を見ていてくれる。
 吸い込まれるように距離を縮めれば、彼の瞳は僕で満たされてしまう。
 見開かれた彼の目元へ唇を寄せる。薄暮の公園で初めて口にして以来の、大切なふたつの音を囁くように落とした。



硝子の向こう



 凛々蝶さまは、たとえるなら春だ。
 
 僕には「自分」というものがなかった。「好き」も「嫌い」もない。こだわりのない人間に生活感は生まれない。自分という存在が好きではなかったから、凛々蝶さまにもあまり自分のことを語りはしなかった。
 それでも、聡い彼女はそんな僕のことに気づいてくれた。僕が語らないことを無理に聞き出そうとはしないし、強引に価値観を押し付けるようなこともしない。けれど、彼女のもたらす気配が、まるで無機質だった部屋を少しずつ満たしてゆくのがわかる。それはまるで、彼女が手紙を通して「教えて」くれた、この世界の姿のようで。心動かされることなどないはりぼての器に情という命を与えてくれた時のように、少しずつ増えてゆく凛々蝶さまの持ち物がこの部屋に息吹を運んできてくれる。
 凍てた枯れ野に届く春の兆しの光のように、やわらかで温かな気配は自然と身に馴染むのが不思議だった。変わらない、変われないと思っていたものをいともたやすく動かしてしまう凛々蝶さま。
 そんな彼女には感謝してもしきれぬほどだ。凛々蝶さまのために生きる。それが僕の存在意義。だから、凛々蝶さまの生まれた日を祝わぬわけにはいかないと意気込んでいた。
 だが、実際にその日を迎えてみると、彼女は世話を焼こうとする僕を押しとどめて言ったのだ。『御狐神くんはいつも僕を甘やかしてばかりだが、不平等だとは思わないのか?』と。
 誕生日だからと反論の余地を奪われ、凛々蝶さまのされるがままになる。
 彼女の右隣に腰かけさせられ、引かれるままに横になれば、頬には彼女の太腿が触れた。丈の短いスカートとオーバーニーソックスとの間に晒された柔肌に身を固くしていると、さらに肩を引かれて仰向けにされた。
「凛々蝶さま……?」
 声をかければ、細い指がそっと僕の前髪を横へと流す。頭を撫でられる犬のようにそれを甘受していると、
「御狐神くん」
 自分を呼ぶ声がした。凛々蝶さまの手が顔の両脇に伸びてきて、何をしようとしているのかわからずにいる僕にはかまわず、眼鏡のテンプル部分に触れられる。息のかかる距離。目を伏せて彼女の好きなようにさせていた。
 眼鏡が完全に取り去られたのを確認して、ゆっくりと閉ざした瞼を開けばうっとりとした表情でこちらを見る凛々蝶さまの姿があった。眼鏡がないせいでややぼやけているが、それでも彼女のそんな顔を見間違える僕ではない。身を起こして抱きしめてしまいたい衝動を抑えていると、彼女の方から距離を縮めてきた。
「っ、」
 目を閉じることも忘れたまま、頬に落ちてくる艶やかな黒髪を、囁くように落とされたふたつの音を、顎に添えられた白魚の指を、そして、目元に触れた柔らかな唇を感じていた。
「凛々蝶さま…っ!!」
 名残を惜しむように離れていく凛々蝶さまの小さな背中に腕を回して、そのまま抱き寄せる。小さく抗った力をものともせず、もう一度、今度は自分の唇で彼女を味わった。
「眼鏡がなくてよく見えない分、直接肌で感じさせてくださいますか?」
 こうして、凛々蝶さまのお望み通りに「甘える」ことにしたのだった。



(2012.02.21)
凛々蝶さまハッピーバースデー!!
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